第28話 良薬は口にクサし

 ――そんなことがあった、翌々日。サイード様はさっそく私のヴィラを訪れると、蓋付きの丸い白磁の器を差し出しながら言った。


「熊の血凝ちごりの丸薬だ。毎朝晩の食後に飲むと良い」


「熊の……血、ですか?」


「ああ。熊の血と数種の薬草を煮詰めて作られた丸薬らしい。効果は折り紙付きだ」


 受け取ってすぐに蓋を開けてみた、その瞬間。ムワッとした強い臭気が、一瞬にして辺りに立ちこめた。


 な……生ぐっさー!!


 まさに血を濃縮したようなそのドス黒い丸薬からは、鉄くささと生臭さが絶妙にコラボレーションしたようなニオイがプンプン漂っている。だが、せっかくの頂き物なのだ。私はなんとか表情筋に力を入れて引きつった笑みを浮かべると、口を開いた。


「ありがとうございます。大事に、いただきますね……ははは」


「いや、大事にする必要はない。それが無くなる頃にまた持って来るから、惜しまずどんどん飲むといい」


「わ、わかりました……」


 サイード様が帰ると私はさっそくシャオメイに水をもらってから、丸薬をひと粒おハシでつまみ上げた。おハシは最近シャオメイに存在と使い方を教えてもらったんだけど、こういう素手で触りたくない感じのものをつかむ時には、本当に便利な道具である。


 意を決して禍々しい気を放つ丸薬を口中に投げ入れると、すかさず水で流し込む。


「効くといいなぁ……」


 私は小さくため息をつくと、その日の全体練習へ参加するため稽古場へと向かった。



  ◇ ◇ ◇



 ――こんなに踊っても、まだまだ身体が重くならないなんて。ウソみたい!


 何曲か終えてもまだ疲れを知らずに踊り続けながら、要所でクッと手首を返す。するとシャンっと一糸乱れぬタイミングで皆の鈴の音が鳴って、私は思わず口角を上げた。今日は羽衣もふんわりと、まるで重力を感じさせずに中空を舞っている。


 あれから七日ほどが経ち――丸薬を飲み始めて間もなく、私は疲れにくくなっていることに気がついた。さらに飲み続けた今ではすっかり以前のような疲労感がなくなって、長時間の稽古も苦にならなくなっていたのである。


 最後の決めの姿勢までキレよく決めてから、ゆっくりと立ち上がった瞬間――肩をポンっと叩かれて、私は後ろを振り向いた。


「ファリン、今の、すっごく良かったよー!」


「ホント、後ろから見てても綺麗だったわよ! 最近調子が良くなったみたいでよかった!」


 そこにあったのは、いつもの友人たちの笑顔である。


「レイリ、アーラも……ありがとうー!」


 二人のこの安堵したような雰囲気から察するに、どうやらけっこう心配をかけてしまっていたらしい。でも私が気にすると思って、あえて触れないでいてくれたのだろうか。我が事のように喜んでくれる様子が嬉しくて、私は笑顔で二人と小さくタッチを交わした。


「なによ、やればできるじゃないの!」


 そこにさらに声をかけられて、私は発言の主に驚いた。汗で頬に貼り付く後れ毛を払いながら近づいてきたのは、パラストゥー様である。


「あ……ありがとうございます!」


「この調子で、本番もしっかり意地を見せなさいよ」


 彼女はそれだけ言うと、ニヤリといたずらっぽく口角を上げた。


「……はい!」


 水の女神役なんか面倒ばかりだと思っていたけれど、頑張ってみて本当によかった。……そう、しみじみと考えていたときである。


「……あの子、最近調子に乗ってない?」

「ホント、絶対いい気になってるよね……」


 そう背後からボソボソと聞こえて、私はビクリと肩を跳ね上げた。あの人たち、私が失敗しているうちは、優しい声をかけてくれていたのに――。


「アナタたち、今のわざとっ……!」


 パラストゥー様が振り向いて、鋭く声を上げかける。だが。


「パラストゥー様、大丈夫です」


 私は彼女を止めると――決意を込めた表情で、発言した妃たちの方へと真っ直ぐに歩を進めた。


「な、なによっ、別に貴女のことだなんて言ってないでしょ!?」


 いつもは争わないタイプの私が面と向かって来るなんて、全く予想していなかったのだろうか。後ずさる妃たちに、あと一歩の距離までぐっと近づくと。私は一転、満面の笑みを浮かべて言った。


「はい。おかげさまで最近すごく調子良くって、ノリに乗ってます。それに、とってもいい気分です!」


「「なっ……!」」


「アハハっ、ほんと、最近のアナタ、すっごく調子に乗ってるし、とってもいい気になってるわ!」


「ありがとうございます! ただ、実は……調子が良くなったのは、サイード様のおかげなんですよね。私のあの不調は貧血のせいだと見抜いて、熊の血で作られたという丸薬をくださいまして。そのおかげで、このところ絶好調なんです」


 ヒソヒソしてた人たちなんてもう居なかったことにして、私はたちの方へくるりと向き直った。


「あら、熊の血なら、わたくしもたまに飲んでいるわ。血の道の乱れに効くのよねぇ」


 そこへバハーミーン様も会話に入ってくると、そうのんびりと頷いてみせる。すると気まずそうな顔をしながら固まっていた人たちは、分が悪いとでも思ったのだろうか――そそくさと逃げるようにして、どこかへ行ったようだった。


「あの丸薬、ご存知なのですか? 私も買いたいので、商人を紹介してもらえませんでしょうか」


 いつまでも貰ってばかりでは悪いから、自分で入手できるに越したことはないだろう。しかしバハーミーン様は頬に手を当てると、ニコニコしながら言った。


「あらぁ、そのくらい分けてあげるわよぉ。いつものお礼に、お代はいいから」


「いえいえダメです。どうか払わせてください」


「でも……お高いわよ?」


 ちょっと困ったような顔をするバハーミーン様に、私は首をかしげた。お高いって……妃としていくらかお手当をもらっているけれど、それで足りないほど高価なのだろうか?


「そう言われると、余計に無料タダではいただけないんですけど……おいくらでしょうか?」


「えっとねぇ……」


 バハーミーン様にコッソリお値段を耳打ちされて、私はおののいた。

 ひええ、そんな貴重なもの、たくさんいただいちゃってたの!?


 妃と比べて、小姓のお手当がそれほど高額だとは思えない。サイード様のご実家はかなりの有力部族ではあるけれど、すでに家から独立した次男だし、援助だってそれほどありはしないだろう。




 ――その数日後。わざわざヴィラまで追加分を持って来てくれたサイード様と顔を合わせるなり、私は勢いよく頭を下げた。


「おかげさまであの酷い疲労がなくなって、とても稽古がはかどっています。本当に、ありがとうございました!」


「いや、いつも助けられてばかりだからな、少しでも返す機会があってよかった。本番を楽しみにしている」


 そう言って笑いながら差し出された新しい磁器を見て、私は申し訳なくなって眉尻を下げた。


「その……熊の血の丸薬は、とても貴重なものだと伺いました。せっかく持って来ていただいたのに申し訳ないのですが、これ以上いただくわけには……」


「いや、以前から君には報酬を渡す機会を探していたんだが、何を贈れば喜ばれるのか全く分からず困っていたからな……ちょうどよかったんだ。気にしないでいい」


 それでも受け取ることを迷った私が、手を出せないでいると……彼は笑いながら私の手を取り、そっと器を上に乗せた。


「もう返品はできないからな。受け取って貰えないと困るんだ」


「……サイード様って、すごく仕事ができそうです」


 手中の白磁に目を落としつつ思わずそう呟くと、彼はとうとう声を上げて笑って言った。


「ははっ、なんだそれは。当然だろう! 陛下の最も身近で万事を整える小姓頭の御役目を拝命しているのは、伊達じゃないからな!」


「しかも、実はよく笑うかただったのですね。以前はもっとお堅い方だと思っていたので、ちょっと意外でした」


 だから例の『物語』では、めったに笑わない堅物キャラという設定で書いていたんだけど……どうやら遠くから見ていた空想上の理想の彼と、こうして話をしてみた実際の彼は、全然違っていたようだ。


 なんだか思っていたよりすごく普通の人だったけど、でもどちらがいいかと問われたら、今はもう――


「そうか? よく笑うなど、君に言われたのが初めてだ。どちらかというと愛想がないと言われる方なんだが」


 ――それって、私と居る時は楽しいと思ってくれているのだと、自負してしまってもいいのだろうか。なんだか、すごく嬉しいかも……と、一瞬考えて。私は内心で強くかぶりをふると、無益むえき煩悩ぼんのうを打ち消した。


『皇帝陛下の妃ともあろう者が小姓と不義密通など、死に値する重罪よ!』


 ――そんな、パラストゥー様の言葉が蘇る。


 この人はあくまで敬愛する陛下をお支えする同志として、私を認めてくれているのだ。ならば私もそう考えなければ、失礼にあたるだろう。


『言い掛かりはやめてくれ。俺がアーファリーン妃と行動を共にしているのは、あくまで陛下の命によるもの。正当な業務の範疇だ』


 そう、ただそれだけなのだ。でもこの人となら、きっと陛下の治世を盛り立ててゆく仲間として、これからも協力していける。


 私はそう、強く自分に言い聞かせた――。

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