第18話 猫の毒、人の毒

 通路の途中でサイード様と合流し、間もなくバハーミーン様のヴィラに到着すると。中へ通されるなり真っすぐに、私は窓際に飾られた真新しい花瓶へと手を差し伸べて言った。


「この花瓶の中身、すぐに処分してください。猫たちを苦しめた毒の正体は、この百合だったんです!」


 私はさっき調べたことをバハーミーン様へと丁寧に説明したが、だが彼女は、やはり訝しげな顔である。


「でも百合って、普通に根を食べたりするじゃない? それが毒だなんて……」


「それが猫の仲間たちにとってだけ、猛毒になるんです」


「まさか!」


 まだ信じられないという顔をする彼女に、私は思案するように首をかしげてみせた。


「困りましたね、人間では食べても毒にならないので、私では証明のしようがありません……」


「君は……また自分の身を以て証明することを考えていたな? 二度とやめろと言っただろう」


「す、すみません……」


 今日もまたハンカチで鼻を押さえながらため息をつくサイード様に、私が小さくなりつつ謝っていると。その様子を見ていたバハーミーン様が、苦笑して言った。


「いいわ、わたくしはファリンを信じる」


「それは……」


「猫に食べさせて証明することもできるのに、貴女また、自分で試そうとするなんて……信じるしかないでしょう? とにかく、百合はもう部屋には持ち込ませないようにするわ。まさか毒花というわけでもないのに猫にとってだけ毒になるだなんて、思いもよらなかったわよ」


「ですね……」


 深いため息をつくバハーミーン様に、私は困ったように同意する。そのまま百合が片付けられる様を眺めていると、侍女が新たな客の来訪を告げた。


「パラストゥーと皇子が!? どういうつもりかしら……」


 広間に残した小姓たちの話によると……サイード様に担がれて私が退場した後のこと。しっかり場の雰囲気にまれたパラストゥー様は、あれが事件ではなく植物の持つ毒による事故だということに、すんなり納得してくれたらしい。とはいえバハーミーン様を疑ったこと自体については、お互い様だろうと結局謝りはしなかったというのだ。


 そんなパラストゥー妃が、一体どんな用事だろう。バハーミーン様と共にそう訝しみつつ中へ通すと、彼女は入るなり、突然こう言い放った。


「ソルーシュがこっそり触りに行ったら困るから、ちゃんとわたくしの監督下で触らせておくことにしたのよ!」


「触らせておくって何を……ああ、猫のこと? ならちゃんと触りたいって、そうおっしゃいなさいな」


 呆れたように片眉を上げながら、バハーミーン様が言う。それを否定するかのように、パラストゥー様が大慌てで言った。


「べっ、別に、わたくしが触りたいわけじゃないから!」


「なによ、そんな態度なら触らせてなんてあげないんだから!」


 だが、いがみ合う母親の陰から前へと一歩進み出て……意を決したかのように、ソルーシュ皇子が小さく声を上げた。


「あの……ねこさんげんきになった?」


「あら、ええ、もうだいぶ元気になったわ」


 目線を下げて驚いたように答えるバハーミーン様に、皇子はさらに、勇気を振り絞ったようである。


「さ、さわってもいい?」


「あら、もちろんよぉ!」


 途端にご機嫌が治ったらしいバハーミーン様は、満面の笑顔でうなずいた。近くにいた猫を一匹抱き上げてくると、皇子の目線の高さにしゃがみ込む。


「ほら、撫でてあげて?」


「ソルーシュ、そーっとよ! 驚かせないように!」


 息子の背後から声をかけるパラストゥー妃の声量に、その大きさでは逆に猫を驚かせてしまうのでは? ……なんて思ったが、今回ばかりは黙っておくことにした。きっと彼女自身が動物に触れることに慣れていなくて、強く緊張しているのだろう。


「えっと、そーっと、そーっと……」


 なぜかピンっと揃えられた指先で、ふわふわの背中にちょんっと触れる。


「さわっちゃった!」


「もっと撫でてあげてくれる?」


「いいの!?」


「ええ。この子も、もっと撫でてって言ってるわ」


「うん……」


 真剣な顔をして撫で続ける息子から、パラストゥー様はようやく目を離すと――連れていた侍女から真白い雪花石膏アラバスター製の小ぶりなケースを受け取って、私の方へと差し出した。


「アーファリーン。これ、使いなさい」


 手渡されたケースの蓋を持ち上げると、中には白くられたあぶらがたっぷり入っている。


「これは……膏薬こうやくですか?」


「ソルーシュの治療に使っているものよ。火傷によく効くわ」


「ありがとうございます!」


「別に、借りを作るのが嫌いなだけだから!」


 そう言ってふいっと顔をそらすと、パラストゥー妃はしゃがんで猫を撫で続けている皇子の方を向いた。


「ソルーシュ、そろそろ帰るわよ。帰ったらすぐに、しっかりと手を洗うのよ!」


「はい、かあさま。ねこさん、またね!」


 ニコニコと楽しげな様子の息子の手を引いて、パラストゥー妃は自分たちが住むヴィラの方へと帰って行く。その様子を窓からぼんやり見送りながら、バハーミーン様はぽつりと言った。


「……わたくし、子猫たちの里親を探すことにするわ。親と引き離すのは可哀そうだと思っていたけれど……こんな狭い部屋へぎゅうぎゅうに押し込めておくよりは、大事にしてくれる新しい家族のところへ行った方が幸せなのかもしれないから」


 ――妃として一度この後宮ハレムへ上がったら、二度と里へは戻れない。家族が宮殿まで面会に来ることはできるけど、後宮を出て里帰りすることは許されていないのだ。そんな彼女のどこか寂し気な横顔は、郷愁を覚えているのだろうか……だが彼女はすぐに表情を一変させると、にっこり笑って振り向いた。


「さ、そうと決まったら、絶対にこの子たちを幸せにしてくれる良いお嫁入先を探さなきゃねぇ!」


「私も、お手伝いさせてください!」


「あら、頼もしいわねぇ。ではさっそく、張り紙づくりを手伝ってもらおうかしら!」


「はい!」


 私は笑顔でうなずくと、バハーミーン様と共に大量の紙へと向かい合ったのだった。

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