第三夜 桃の香りがする娘
第19話 寵姫、あらわる!?
水が貴重なこの砂漠の国において、皇帝陛下の高い権威と財力を示すもの――それは、いくつもの広い浴槽を持つ、ここ後宮の大浴場である。そこで軽く身体を流してお湯につかるなり、レイリが勢い込んで口を開いた。
「ねぇねぇ、もう見た!? 例の、
「ああ、ちょうど昨日、通路ですれ違ったけど……」
「ホント!? ねぇ、どんな感じだった!?」
「侍女たちに支えられて、歩くのもやっとって感じだったよ。顔色もすごく悪くて、まるで病気みたいだった……大丈夫なのかな」
私が見たことをそのまま伝えると、レイリはがっかりしたような声を上げる。
「ええー、なんでそんな人が陛下の御気に入りなの!?」
「それはトウラン帝国への配慮でしょ。義務的に何度か通えば、そのうちひいきも終わるわよ。それにしてもいくら貴重な存在だからと病人を寄越すなんて、トウランは一体どういうつもりなのかしらね」
お湯の中でぐぐっと腕を伸ばしながら、呆れたようにアーラが言った。
こうして桃娘は後宮入りし、第二十四妃タオニャンとなったのだが……その貴重な存在は、かわいそうなほどにやつれ果てていた。どうやら慢性的に貧血なのか、白粉に覆われた顔色だけでなく、その細い腕や指の先まで真っ白だったのである。そりゃあ桃しか食べたことがないのだから、栄養不足で虚弱になっても当然だ。
だが桃娘の真価は、その常人とは異なる体臭にあるらしい。乳離れして以降は果物だけで生きているという彼女は、その身体自体が果実となってしまったかのように、えもいわれぬ甘い香りを漂わせているというのだ。
「しかも東方では、
「体液ってなんの!? そんなの取引されるって……きもちわるっ」
アーラから提供された新情報に、レイリは思いっきり顔をしかめて両手で自らの二の腕をさする。
「それ本当だったら、すごいよねぇ」
タオニャン妃は無口で謎の部分が多いから、きっと噂がひとり歩きでもしたんでしょ――そう考えながら私が笑ってみせると、アーラが真剣な顔をして言った。
「それがね、東方から来ている別の商人たちにも聞いてみたんだけど……桃娘って現地では有名な存在みたい」
「そうなの!?」
「そうそう。千人の赤子を育てても、桃娘として十八歳まで生き延びられるのはたった一人いるかいないかという感じらしくて――」
――そんなたわいもない噂話を続けていると……湯けむりの向こうから突然、声が響いた。
「ま、あんな陰気で虚弱な女、東方との関係があるから最初は通っていただけるだろうけど、義理を果たせばすぐ飽きられて終わりでしょうよ」
奥にある浴槽の方からざぶりと水音がして、人影が立ち上がる。それ以降は無言のまま、その人影……パラストゥー妃は、スタスタ歩いて大浴場から出て行った。
「静かだったから、全然気付かなかったわ……いつもならお風呂のときも取り巻きを大勢連れて来てるのに」
「なんだかちょっと元気もなかった、かな……?」
「あのパラストゥー様でも、ヘコむことってあるんだね……」
私たちはパラストゥー妃が消えた方角から目を離せずに、そう呆然とつぶやいたのだった。
◇ ◇ ◇
そんな風に私たちが無責任な噂をしていたすぐ横で……異変はすでに始まっていた。タオニャン妃が入宮して以来、三日経っても、七日がすぎても、皇帝陛下は彼女のヴィラにばかり通い続けていたのである。
陛下が妃たちから淡白な御方だとか言われている理由は、これまでは同じ妃のところに三日と続けて通ったことがなかったからだ。しかもこれまでは妃のヴィラに泊まっても朝早々といなくなっていたものなのに……最近では政務の時間だとさんざん小姓に声をかけられてから、ようやくタオニャン妃のヴィラを後にするという日が続いているらしい。
――とうとう、寵姫が現れたというの!?
その日数が増えるにつれ、後宮にはそんなざわめきが広がった。みな、推しの熱愛疑惑にやきもきしているのだろう。このところ平和だった後宮は、途端にギスギスとした空気に包まれていた。
「タオニャン妃が悪いんじゃないんだけど、なんだか嫌な空気だなぁ……」
一日の終わりに、
「ボクに願えば、邪魔者なんて一瞬でここから追い出してあげるけど?」
「追い出すって、どうやって?」
「方法はいろいろあるけど、ボクは基本的に物理だから……こう、ビューンってね」
言いつつシュッと振り抜かれた小さな前足を見て、私は慌てて声を上げた。
「いや、ダメでしょ! ええと、実行してもらわなくて大丈夫だから……」
「なぁんだ、つまんないなぁ」
子トラはそう嘆くように言うと。そのムクムクと丸い顔を、コテンっと前足の上に乗せた。
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