第21話 甘い香りの正体は

 再び目を閉じた陛下のもとからそっと退出すると、私は前を歩くサイード様に小さく声をかけた。


「……そういえば、タオニャン妃の方の証言は得られているのですか?」


「いや、まだだ。タオニャン妃は自ら声を発することが滅多にない上に、こちらの言葉もほとんど通じていないらしい」


「言葉が? タオニャン妃はトウラン人ですよね? それなのに、言葉が分かる者が一人もいないのですか?」


「トウラン語の分かる者はいることはいるのだが……どうやらタオニャン妃の使う言葉は、方言がかなり強いようなのだ。さらに今は夜明け前なこともあり、口が堅く信頼できるトウラン人など、簡単には見つけられないという状況だ」


「トウランの、方言……すみません、一度私のヴィラに戻ってもかまいませんでしょうか?」


「では、同行しよう」


「え、でもすぐ戻りますから!」


 確かに、今は事情が事情なので、侍女は連れて来ていない。だが夜道といえど、警備の厳しい後宮の敷地内である。外のような危険なんて、ほとんどないだろう。しかしサイード様は首を横に振ると、有無を言わせぬ口調で言った。


「夜道の妃の一人歩きは、いかなる場合であれ許可できない」


「それは……すみません」


「では、行こうか」


 私はヴィラに到着すると、入り口で待つというサイード様に軽く頭を下げてから、ほとんど書庫のようになっている物置部屋へと向かった。壁の一面に並べられた書棚には、暇な時間に私なりのパターンできちんと分類・整理しておいた父の手帳や古い蔵書たちが、ぎっしりと詰め込まれている。私はそのうちの隣り合う四冊ほどを棚から抜き出して、部屋を出た。


「お待たせしました! タオニャン妃のところへ行きましょう」



  ◇ ◇ ◇



『私の名前はファリン。敵じゃない』


 血の気の全くない肌に、真っ黒に開いた穴のように虚ろな瞳――。寝台にぼんやりと座り込んだままのタオニャン妃へと向かい、私はもう何度目かになる同じセリフを繰り返していた。だが、ただ繰り返しているのではない。広大なトウランに住まう六つの民族別に特徴的な方言を、次々と変えながらの反復である。


 だが父の記録をめくりながら色々と試した甲斐があってか、四回目でようやくタオニャン妃はハッとしたように顔を上げた。


『敵じゃ、ない……?』


『そう。安心して』


 初めて合った目をまっすぐに見つめ返すと、私は優しく微笑んでみせる。すると彼女はこれまで抑え込んでいた感情がせきを切ったかのように、勢い込んで喋り始めた。


『どうか……どうか助けて! あたし本当になにもしてないんだよ! ここにきたら桃以外食べたらダメだって、じゃなきゃお前も弟も殺すって、そう奴隷商に脅されてて、でも、それだけなのに!』


『落ち着いて! ここは安全で、悪い人は入れない。だから、何があったのか、教えてくれる?』


『あ……あたしさ、桃の実しか食べずに育った桃娘タオニャンだなんていうのは、ウソなの……』


『ああ、やはり』


『知ってたの!?』


『はい』


『そっか……とっくにバレてたんだね……』


 本当はそこまでは考えていなかったんだけど、すでに知っていたことにした方が彼女も話しやすくなるだろう。そう考えた私は自信ありげな感じに笑うと、先を促すように無言でうなずいた。


『あたしの本当の名前、シャオメイっていうの。十八になった年に父ちゃんが商売に失敗して、借金のカタに売られたんだけど……奴隷市の檻に入れられてるうちに、なんでか良く熟れた果物みたいな匂いがするって言われるようになって。これは高く売れそうだって、あの伝説の桃娘タオニャンだってことにされたんだ』


 そうしてこれから人前では桃以外を食べたら殺すと言われ、トウランの後宮に高額で売られたのだという。かと思えばすぐに、この砂漠の皇帝への貢物みつぎものとして贈られてきたということだった。


 彼女の首筋に鼻を近づけて匂いを嗅がせてもらうと、確かに甘ったるい香りをほのかにまとっている。匂いの元を探ろうとさらに長く嗅ぎ続けていると、頭がクラクラするようだった。侍女たちの話によると特に陛下が訪れる前にはしっかりと湯浴ゆあみをさせていたらしいし、香水を隠し持っている様子もないとのことだから、この甘い香りは本当に彼女の持つ体臭なのだろう。だが、これは――。


「……もしや、毒気トルエンの香りでは」


 私が思わず砂漠の言葉で呟くと、タオニャン妃の尋問――ということになっている――に同席していたサイード様が、疑問の声を上げた。


「毒気?」


「はい。毒気トルエンとは西方では塗料の溶剤シンナーなどに使われるものなのですが、その蒸気を吸い込むと中枢神経麻痺作用……つまり多幸感を感じたり、幻聴や幻覚を見たりといった、強くお酒に酔ったような状態になることがあるんです。個人差はありますが、体質によっては強い依存性もあり……陛下は特に、毒気に強くあてられる体質であらせられるのかもしれません」


「塗料といっても、そんなもの、どこにも塗られているようには見えないが……」


 サイード様はそう言って、タオニャン……いや、シャオメイさんへと不審げな瞳を向けた。さっきから理解できない言語で会話されている彼女は、びくりと肩を跳ね上げてから、私の方へとおびえたような目を向ける。そんな彼女を安心させるよう笑顔を作ると、私はコクリとひとつうなずいた。


「ええと……『シャオメイさん、大丈夫』」


 彼女が小さくうなずき返したのを確認してから、私はサイード様へ説明を続けた。


「今回の原因は塗料ではありません。彼女自身の肌から、毒気が放出されている可能性があります。毒気トルエンって……まるで果実のような、甘い香りがするんですよ」

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