【8】ここが彼岸のあなたでも

 ◇


 目を見開くと、そこは真っ赤な夕陽に染まる広い部屋の中だった。誠通は布団の上で横になっていたらしい。


「・・・・・・あれ?」


 天井へと伸ばしていた己の腕で、そっと頭を抱え込む。それと同時に、泣き喚くふたつの影に抱きつかれた。


「誠通! 良かった!」

「まさか、本当に、本当に、息を吹き返すなんて・・・・・・!」

「は?」


 重たい影には見覚えがある。両親だ。誠通は目を瞠り、飛び起きた。


「父さん、母さん? いや、だってふたりは事故で、もう」


 ふたりで旅行をした帰り、夜の山道でハンドル操作を誤って、崖から川へ転落したのだ。そう報せを受け取って、だから、あの親戚の家に――


「俺・・・・・・親戚、いたか・・・・・・?」


 父にも母にも兄弟はおろか遠縁すらいなかったような、そんな気がしてくる。


 混乱をそのまま口にしたせいか、何をいっていると両親が涙ながらに言い募ってきた。事故に遭ったのは誠通の方だと。川に落ちて生死を彷徨い、祈りも虚しく三日前にその死が告げられたのだと。だから村のしきたり通りに神社のお社に三日置かれ、もう明日には葬儀と、そう諦めてけじめをつけようとしていたところだったのだそうだ。


 それがこうして蘇ったと、ふたりは奇跡を叫んで誠通に抱きつく。その光景を、いつからいたのか、周りの大人たちも不可思議に首を捻りながら、口々に寿いでいた。


「いやぁ、これも俺のおかげだと思うんですよ。だから、もう放してもらっても?」


 ふいに親しんだ声がした。見れば囲む大人たちの輪のはしで、羽交い絞めにされた綺麗な顔が、困った表情を浮かべていた。


 ほっとした。おかしなものだ。確かに誠通は彼の顔を見て、安堵と懐かしさすら覚えた。父もいる。母もいる。周りの大人も顔見知りばかりのはずなのに、誰かも分からぬ人々の中に突然放り込まれたような不安が、胸にさざ波のように押し寄せていたのだ。


 ただ彼も、いまだ誠通の頭にこびりつく姿とは少し異なった。それしかないと言っていた真っ白な着物ではなく、シャツとジーパンというありきたりな出で立ちであったし、風に遊ばせていた白銀じみた金糸はひと結びにされ、その顔には見覚えのある眼鏡がかけられている。


「まったく参ったものだよね」


 拘束を解かれると、彼はにこにこと笑いながら誠通の隣に、ごく当然に座り込んだ。


「あの世へ渡る前の君が、こっちで過ごす最後の三日間。しきたり通り神主の息子である俺が、この社の外で宿直をさせてもらってたんだけどさ。死んだ幼馴染と障子ひとつ隔てて寝るのって、やなものじゃん?」


 口調は軽く、しかし微笑む瞳は切なげに、眼鏡越しに誠通を映して小首をかしげる。そこで誠通は「ああ、そうだ、彼は幼馴染だった」と、いまさらのように思い至った。混然とした記憶から、彼にこれが間違いないものだと握らされた心地だ。


「だからさ――三日目の今日、あと一晩経ったら、君はもう火にまかれていなくなっちゃうんだなぁって思ったら、なんとなぁく・・・・・・駄目なんだけど、ちょっと障子を開けちゃったんだよね」


 もう過ぎた秘め事なのにひっそりと声を小さくして、誠通の幼馴染は形の良い赤い唇に弧を描いた。


「そしたら、冷たい顔して、白い着物なんか着て、君がひとり、こんな離れの社で横になってるじゃん。やるせなくなってさぁ」


 言われて気づけば、誠通は真っ白な装束に身を包まれていた。状況が状況なだけに、合わせも生者のそれではない。だがそれ以上に、連なる三角形の地紋が気にかかった。この村の神社の祭神にゆかりのある紋で、冠婚葬祭――神社の関わる行事には、この地紋が使われるしきたりだ。そう、知っているはずなのに、なぜか胸の奥に一瞬、ざわりと冷たい感覚が滑り落ちた。


「あの世に行って、そこの物を食べたら戻ってこられない。よくそういわれるじゃない? だからさ、逆はどうかなって思ったんだよね」

「逆?」


 誠通は眉根を寄せた。見慣れた幼馴染の灰色の双眸。それが、ふっとわずか愛おしげな悪意をのせて笑みを象った――ように見えた。瞬間。びっと彼の親指が、得意げに突き立てられた。


「君が好きな井之村屋のいちご大福、思いっきり口にねじ込んでやった!」

「死者への冒涜が半端ねぇな、おい!」


 すかさず怒鳴りがちに誠通が返せば、彼は「え~、君までそう言うの?」と不満げな非難の声をあげた。


「多分おかげで助かったんだよ。あっちからこっちに来れたんだよ? なのにさ、人が咀嚼を手伝おうと君の顎掴んで、こう、もぐもぐやらせてるのを見つけた大人たちが、大騒ぎで引き離して止めて、ものすごい勢いで怒ってきて」


 だから羽交い締めにされていたのか、と妙な納得をして、誠通は悪びれない幼馴染へ呆れた眼差しを送ってやった。


「君が目を覚まさないままだったら、俺、ただひどいことしただけの奴にされてたところだったよ」

「そこまで分かっててなんでやらかすんだろうな、お前は」


 尖らせられた唇に、誠通は盛大な溜息を聞こえよがしに吐き出してやった。


 そんなふたりのやりとりを、いつも通りだと笑いながら、周りで見守っていた大人たちが三々五々に散っていく。良かった、なによりだと嬉しそうに言う声が引いていけば、いつの間にか――夕陽の照らす社の内には、彼らだけが残されていた。


 日中の名残が消えきらない、真っ赤な陽射しだ。空気はまだ生ぬるく、うだるようで、蝉時雨がよけいに夏場の熱気を煽っていた。


 首元まできっちりと着つけられた着物のせいか、汗が滲む。


(・・・・・・暑い、な・・・・・・)


 つうっとこめかみから一筋つたった汗を拭って、おもむろに誠通は、隣に座ったままの彼を見つめた。


「なぁ・・・・・・いちご大福って、まだあるか?」


 口の中を舌で辿れば、ふわりとした甘みと酸味が残っている。食べた。それだけは、間違いない。


「井之村屋のなんて、こんな夏場によくあったな」


 真っ直ぐに見つめる誠通の黒い瞳に、白銀の髪、透きとおる肌が淡く映りこむ。ふわりと、煙に巻くように彼は瞳を細めた。


「君が食べたので最後だったんだ。来年の春、また一緒に食べよう?」

「橋を越えた向こうに行って、か?」

「やだな、誠通。井之村屋は、橋の手前の老舗でしょ」


 忘れちゃったの、と覗き込む。その顔にかけられた線の細い眼鏡のつるに、そっと誠通は指を伸ばした。


「なぁ、これ、レンズ割れてなかったか?」

「いや、割れてたらかけてないし。ちゃんと見えないじゃん」

「・・・・・・だよな」


 つるを伝う指先が頬に触れたのか、くすぐったそうに身をよじった彼をそれ以上追いかけず、誠通は指を離した。そもそもこれは、奪われたわけではない。ずっと前から、元から、彼のものだったはずだ。視力が弱い、そう言って、出会ったころからかけていた。そのはずだ。


「――夢を見たんだよ。死んでたっていうなら、夢とは言わないかもしれないが。そこで俺、両親を亡くして、縁戚の家でやっかいになることになって。で、そこの親戚に遺産目当てで殺されそうになってたらしいんだ」

「わぁ、それ、踏んだり蹴ったりじゃん。ひっど」


 唐突な誠通の話にも変な顔をせず、幼馴染はけらけらと笑ってくれた。


「でもそこにお前がいてさ。神だとかなんだとかぬかして、まあ、色々教えて、助けてくれたんだよ。その時、いちご大福も食わされた」


 小さく思い出し笑いを口端に刻んで、誠通はそっと傍らの青年の顔を覗き込んだ。怜悧な黒の目元を、あえてしなやかに細めてみせる。


「お前が助けに来てくれたのかもな。いちご大福持って」

「なにそれ。そうなの? まぁ、面白いから、そう思ってくれてていいよ。それに君のためなら本当に――なんでもできると思うから、俺」


 からかう響きに、ざわりと背を冷やす本音が混ぜ込まれたように聞こえ、まじまじと誠通は彼を見つめた。見慣れているはずの出で立ちなのに、初めて目にする心地がする。ふと、シャツからのぞく細い首筋に、小さな痣があるのが視界の端に飛び込んできた。痣というよりは、白い肌の一部がさらに白く、ちょうど色が抜け落ちているような状態だ。


「これ、前からあったか? 着物の衿で気づかなかった・・・・・・」

「誠通、君、なんか混同してない?」


 あまりに遠慮なく腕を伸ばして誠通が首筋の痣に触れたからか、彼には珍しくやや不快げに眉を顰めてきた。だが気にせず指の腹で撫でれば、滑らかな肌の上でその痣の部分だけ、ざらりと固い感触がした。――鱗に似ていた。


「お前はさ・・・・・・この村の神社の神主の息子で、俺がここに小一で越してきた時からの友達で、中学も同じで、高校も一緒。この前、大学どうするって話して、この夏休みに泊りがけでオープンキャンパスでも行くかって、そんな約束、したよな?」

「したよ。もうやめてもらっていい?」


 淡々と確かめるように紡ぐ間も、痣を繰り返し辿っていた誠通の手を、彼は困った様子で押し留める。


「いまさら急にどうしたの? ずっと、そうだったでしょ?」


 苦笑交じりに首を傾げられる。当たり前のことを尋ねたと、自分でも思っている。けれど――


「お前、俺に会った時、びびっときたとか言ってたよな?」

「ああ。うん。一目見た時からね。これはいけるぞ~みたいに。なにせ君、顔がよかったし。目もあんこみたいな色で美味しそうだったし」

「食うなよ」

「食べないよ」


 軽口で流そうとして、彼はふと口端に微笑を結んだ。語調のわりに、殊のほか真摯に誠通が見つめているのに気づいたのだ。


「――俺をなんだと思ってるの?」

「幼馴染、だろ?」


 試すように告げて、誠通は彼の雨空の瞳を逸らすことを許さず射貫いた。それに彼はいささか不釣り合いなほど、わくわくと楽しげな空気を纏わせる。灰色の奥に、喜色が夕陽にとけてゆらゆらとさざめいて見えた。


「ああ、そうだよ。君、昔から変わらずお人好しで優しいね。そういうところも、気に入ったなぁ」


 儚げな容貌に似合わず、けらけらと無遠慮に大口で笑う。昔から、いつも彼はそうだ。そういうところが、幼い頃から好ましかった。そう――思う。


「――・・・・・・俺がお前と会ったのって、七つの頃だよな?」

「うん、そうだよ。間違いない」


 はっきりと彼は断言した。確かに誠通にも、その頃の薄っすらとした思い出がある。親の仕事の都合で、ずいぶんな田舎に引っ越していったのだ。そして夕暮れ時、荷解きに飽きて抜け出した先で、彼に出会った。


『こんにちは。もしくはこんばんは、かな。珍しいお客人』


 広い庭園。三角模様のある、橋のような廊下。突然かかった声にそこを見上げれば、咽かえるような金色の洪水の中、誠通を見下ろし微笑む、淡く白い人影があった。


(いや、あれは、親戚の家に遊びに行って、蛇を見かけた時、か・・・・・・?)


 田舎の古く大きな邸だったように思う。蛇を見かけた。綺麗な真っ白な蛇だ。物珍しさにその話を自慢たっぷりに大人たちに話した。するとなぜか、三日泊まるはずが、次の日には家に帰ることになったのだ。


(違う、な。葬儀に呼ばれて、親だけが行ったんだ。確か、水の事故で、そこの夫妻が亡くなって・・・・・・?)


 辿ろうとするそばから、すべて紛い物の記憶に思える。そもそも、親戚がいた覚えはないのだ。もし思い違いで親戚があったのだとしても、まだ七つになったばかりの子をひとり置いて、遠い田舎まで両親だけで葬儀にいくだろうか。


(・・・・・・あえて、連れていかなかった?)


 蛇の話をした時、その夫妻が顔色を変えて、帰るようにすすめたのではなかったろうか。訃報は、そのすぐあとに舞い込んだのではなかったろうか。


 頭がくらりと揺れた。なにかが掴めそうなのに、引き寄せようとすると曖昧だ。間違いないことがなんなのか、己のことなのに、ぼんやりと靄がかかってはっきりと見定められない。


「誠通」


 耳元に、慣れ親しんだ声がするりと這いよる。そこに懐かしさがあるのだけは、嘘ではなかった。


「どうしたの?」


 覗き上げる眼鏡越しの瞳の奥。西陽が射し込んだのだろうか。灰色の底が、赤くゆらめいて見えた。水面の底から見上げる、火灯りのようだ。


『君のためなら、なんでもできそうってことさ』


 彼がそう微笑むのを聞いたのは、いつのことだったろうか。


(なんでも、か――・・・・・・)


 いま思えば、あれは凶事の音色だったのかもしれない。けれど――


 目の前の彼を誠通は静かに見つめる。結わいた髪が、細く、長く、薄い肩に流れかかり、白くきらきらと夕焼け色に輝いていた。忌諱すべきものがあるはずなのに、鈍くまどろんでいく。うっすらと誘う恐ろしさと絡み合う、慕わしさにのまれていく。


「いや・・・・・・――」


 口を開いて暑い空気に触れた瞬間、その舌先に、喉の奥に、甘酸っぱい味が蘇った。じわりと唾がわき、喉が鳴る。どうして焦がれているのだろう。なにに、渇いているのだろう。


『入っても、出されたものは食べない方がいいよ』


 朧になっていく、あちらにいた時の記憶の片端。そのどうでもよかったような一瞬が、脳裏に染みのように、わずか浮かびあがった。


(――食べちゃならないものは・・・・・・本当は、なんだったんだろうな)


 誠通は、ずっと隣にいる、おそらくは幼馴染を見つめた。


 燃える橋と、彼が誠通の名を呼んで引き上げてくれた岸辺。ここで目覚める前の夢は――記憶は、そこで終わっている。


(あの橋は、どこにかかってた・・・・・・?)


 引き上げられた岸辺は、はたして、どちら側だったのだろう。


「誠通?」


 また、彼の声が名前を呼んだ。その声はひどく甘やかに誠通を呼ぶが、いつ彼は――その名を知ったのだろう。


(まぁ・・・・・・いいか)


 誠通は、ゆっくりと口端を引き上げた。この幼馴染にとって、自分は昔から変わらずお人好しで優しいらしい。それがいつからかを指すのかは、もう問うまい。


「なぁ、ひとつ聞いていいか」


 だからどちらでもいい。これが現の真でも。夢幻の欺瞞でも。


「どうもあの世からの帰りだと、まだ思い出せないらしい」


 咽かえるような夕陽の煌きが、部屋を朱色に染め上げている。その中に白く眩しく浮かび上がる彼の姿に、視線だけではないなにかを奪われたのは誠通なのだ。


(――魅入られた)


 禍々しさすら美しい、白。


 だから、ここが彼岸のあなたでも――騙され続けていてやろう。どうせもう、振り返りも引き返せも、できはしまい。


 誠通の伸ばした指先が、結わいた白銀の髪をするりと滑り、撫でて絡めとる。


「お前――名前はなんていうんだ?」


 黄昏時の目も眩むような寂寞とした光の中、白い影はゆったりと、赤い唇に笑みをひいた。


 蝉時雨の音はいつのまにか掻き消えていて、どこからか遠く、祭囃子の声がした。






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