【7】橋の向こうへ


 夜の庭は視界が悪い。闇に目が慣れると言っても限度がある。特に舗装されていない、大小の砂利が敷かれた道は曲がりくねり、植木などの邪魔もあって歩きにくい。しかし、彼は暗い中の方が歩き慣れているのか、躓きも迷いもせずに、真っ直ぐに離れから東南へと進み、誠通を案内してくれた。だが――


「お前、本当に服それしかないのかよ」

「夏物も冬物も白い着物しかない引き出し、気持ち悪いよ。抜け出す前に見せてあげたかったな」


 裏門を抜け、橋に出る前に一呼吸、と身を潜めた植木の陰で囁けば、誠通の隣にしゃがみこむ白い肩はそうすくめられた。


「ここはともかく、山で隠れるつもりなんだろ? 白、すげぇ目立つし、お前それで山道動き回れるのかよ」

「目立つのはしょうがない。動くのはね、わりといけるよ」


 裾をはだけさせ、ぐっと細い足を突き出して伸脚運動をしてみせるが、履いているのは簡素な草履だ。本当に大丈夫なのかと、ここに来て誠通には不安しかない。


「白は好きなんだけどさ。こうも毎日変わらず着てると飽きるんだよ。だから、抜け出したら、原色のきつい色味の服でも誠通に買ってもらおうかな」


 くすくすと楽しそうにゆれる笑い声が、眉を寄せた誠通の顔を覗き見る。喜色をたたえるその表情に、彼がいた離れの部屋が、そこに運ばれる冷めた食事が、布団に転がっていた足枷の重々しさが、瞬く間に過っていった。


 それだけが彼の世界で、戻ってしまえば、ずっと生涯、その世界は広がることも色づくこともなく、彼を捕えつづけるのだろう。


 引き返すならいまだろうかと傾きかけた思考が、溶けて消えていく。誠通は植木の陰から、その先の裏門をそっとうかがい見た。ひっそりと静謐に、分厚く重たそうな木の扉が眠っている。だが、大きさは表門ほどはない。出入りの小さな扉が併設されていないのもそのためだろう。ふたりがかりなら、苦も無く開けるはずだ。


「・・・・・・じゃ、そろそろ行く、」


 腰をあげようとした瞬間、ぐう、と低く鈍く間抜けな音がした。切れ長の灰色の双眸がまるまると瞠られる。誠通は顔を赤くして頭を抱えた。


「え? 嘘でしょ。どんだけお茶目な能天気お腹で飼ってるの?」

「あんまり食欲なくて・・・・・・つか、お前の話聞いてから、あんまり食べる気もしなくて・・・・・・」


 それがここへ来て、こんな緊迫感のない状況を発生させるとは思いもしなかった。いまだ空腹をおぼえはしていないのだが、しかし、身体は正直なようである。


 仕方ないな、とため息が落ち、隣でなにやら袂をごそごそとあさる動きがした。


「腹の虫の音で見つかるなんて珍事避けたいし。これ食べな。最後の一個」


 包んでいた懐紙を長い指がつまんで広げると、中にはいちご大福がちょこんとおさまっていた。


「なんで袂からそんなもんが出てくるんだよ」

「山の中で隠れてる間の非常食のつもりでいたの。でも、恵んであげる」


 うっすらと粉雪をかぶった求肥の間から、こしあんと大粒のいちごがしとやかにのぞいている。白くふっくらとした皮は触る前からもっちりと柔らかそうで、丁寧に仕上げられたあんもなめらかな見栄えだ。こといちごは美しく、瑞々しい赤い実が、星明かりの中でなおつやつやと光って見えた。


 じわりと唾液が口内ににじみ、ごくりと喉が鳴る。こんな時にと感じながら、誠通は堪えられず、おずおずと彼の差しだした懐紙の上に指を伸ばした。


 しっとりとした滑らかさが指に吸いつく。口に含めば、上品なあんの甘みと爽やかないちごの酸味が舌を潤した。咀嚼して飲み込む、その最後の喉の動きまで傍らでじっと見守りながら、灰色の瞳は静かに微笑んでいた。


「――美味しかったみたいで良かった」


 最後まで食べ終わったのを見届けて、誠通の隣の白い影はするりと立ち上がった。


「さ、行くよ」


 甘く命じるように誘う、白磁の長く細い手を取る。


 腕を引かれるままに駆け出して、門を抜けだす。同時に鳴り響いた警報機の音が鼓膜をつんざいた。焦燥を煽り、不安を醸造するけたたましさに誠通は眉を顰めた。


 いやにうるさい。纏わりつくように耳元で危険を喚きたて、いくら走っても離れていかない。


(いくら走っても・・・・・・?)


 そういえば、と思う。あの時庭から見た門は、閉じていなかっただろうか。邸を囲む塀と堀の間はほとんど離れていない。それなのに、邸から裏手の山に通じる橋が、あまりに遠くはないだろうか。


 けれど、警報の音に背後からのざわめきが混じった。追ってくる人の気配がする。それが邪魔で、違和感が取り留めもないまま、形を結ばない。


「待ちなさい!」


 怒声にも似た叫び声がした。岳弥だろうか。警告音が耳鳴りのようで、よく分からない。それでも誠通を引く腕の力は弱まらない。駆ける、その足元の感覚が土から硬い木材へと変わった。橋だ。


「駄目です! 誠通くん! そっちに行ってはいけない!」


 鬼気迫った引き止める声が背中を突き刺す。だが、


「誠通、ぜったい振り向いちゃいけない! 走って!」


 固く握りしめる掌が強く命じる。ほかのすべてを雑音に変えて振り払う凛と通る響きに、誠通は思わずその背だけを見つめた。


 長い髪が月明かりを受けて、それこそ真白に輝き闇夜にたなびく。儚く脆く揺れるようで、しなやかに眩しい。視線も意識も奪われて、誠通は橋の上を、手を取られるに任せてひた走った。


 まだ後ろから声がする。けれど、もうなにをいっているのか、言葉を結び、意味をなさない。


 短く小さいはずの橋がひどく長く大きい。息が上がり、足がもつれそうになってきた。あと少しの声がかかって、ようやく渡り切る直前。ふと誠通は視線を脇に逸らした。橋の欄干の終着点。橋の名前がそこにあったが暗くて見えなかった。だが、この村に来る時に渡った橋とそれはよく似ていて、眼前にはきちんと裏山があるのに、とても邸からの橋とは思えなかった。


 違和感がまたざわりと首をもたげかける。その瞬間。


 視界が紅蓮に染まった。橋が一瞬で燃え上がり、崩れていく。まだ誠通は完全に渡り切っていない。落ちると思った。


 深い川。重い水の底。


(あれ・・・・・・?)


 最初にこの邸に来た日の光景が蘇る。子供でも飛び越えられる程度の小川だと、そう、この邸を囲む堀のことを見たはずだ。


(ここは、どこの川だ・・・・・・?)


 考えを続ける間もなく身体が滑り落ちていく。明々と火の粉が舞い上がる。夜空が遠い。


「誠通!」


 名を呼ぶ声とともに視界に白い影が伸びて、誠通の手を再び掴み取り、岸辺へと引き上げた――そんな気がした。

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