【6】君のためなら
夜更け過ぎ。襖を開くと、また深夜にいちご大福を頬張っている男が、昨夜と同じ姿勢で誠通を出迎えてくれた。
「またこんな時間にそんなもん食ってるのか、お前」
「六個入りからしか頼めなくて。消費期限の問題もあるし、せっせと食べないとさ。いる?」
「いらねぇ」
すげない返答に、「助けてくれてもいいのに~」と、彼はその形のいい唇を尖らせた。
「とはいえ、今日は体調良さそうだね。昨日はびっくりしたよ」
「それは・・・・・・迷惑かけたな」
「こんな生活でもいつかの脱走のために鍛えていた、俺の筋力に感謝してほしいね」
恩着せがましく胸を張る、その痩身のどこに自慢の筋力があるのか疑わしかったが、誠通を引きずっていってくれたことは事実である。ふとこぼれそうになった反論の言葉は押し込めて、誠通はもう一度感謝を述べた。
「まぁ、真面目な話。飲み食いしないわけにもいかないだろうから、多少の摂取は仕方ないにしても、薬って身体に合わないと症状が強く出たりもするし、明日逃げたら、病院行った方がいいよ」
「――まだ、逃げると決めたわけじゃない」
「そうなの?」
岳弥たちには心づくしのもてなしをうけている。彼の話だけで、彼らの腹の底に殺意を疑うのも失礼に感じているのは事実だ。
だが、真っ直ぐには告げられなかった言葉を追いかけて、切れ長の灰色の目が、誠通のそらした顔をのぞきこんできた。
雨空の空気を閉じ込めた瞳だ。薄曇りの空が、しっとりと絶え間なく注ぐ雨とともに、空気ごとじんわりと灰色に染め、重く濡らしていく。その鬱屈とした静謐にまどろむ色をしていた。
「まだ信じてないとはおめでたい。別にいいけどね。でも、殺されても恨んで出てこないでよ」
言葉選びのわりに、彼には珍しく茶化す雰囲気はあまりない。いっそ不満げですらあった。
「信じてないわけでもない。だから、来たんだ」
彼の布団の下に、不気味な足枷があるのは事実だ。言葉や態度は取り繕えることも分かっている。
「ひとまず、もう少し詳しく話を聞きたい。もし逃げるとしたら、どうするんだ?」
疑いきれないだけなのだ。なにか心を決めるに足る、もう一押しがあれば、きっと、彼の手を取れる。
その心内が分かったのか、彼は不満顔を引っ込めて、代わりににやりと唇へ笑みをひいた。身を乗り出し、楽しげに踊る声をひそめる。
「計画はちゃんとあるんだ。この離れからぐるっと回って庭を東南へ行くと、裏門の橋に出られる。この邸周りに掘りみたいに川があるでしょう? あそこを越えられる橋は、君が来た表門とその裏門にしかないんだけど、表門は渡っても村の中心に向かう道に出るだけだから良くない。裏門なら、ちょっと走れば裏手の山に逃げ込めるんだ。この家、庭はともかく、門や塀のところには機械警備があるから、どうあがいても、特殊なスパイ訓練でも受けてない限り、そこで引っかかって見つかるんだよね」
「見つかるのかよ。というか機械警備・・・・・・あるのか」
「一応ど田舎でも大きな邸だから。安全のため契約してるんだよね。警備会社と。だからもれなく、脱走すると警報が鳴るの」
どうもこの古い家屋にちょこちょこと登場する、クーラーや電気、通信販売や機械警備といった現代的な要素に違和感を覚えてしまう。家が古めかしいからといって暮らしぶりまで昔のままであるはずはないのだが、その存在を無粋に思ってしまうのは、まだ自分がここで暮らさない、外の人間だからなのだろう。
「警報は鳴っちゃうけど、橋さへ渡ればあとは山林だから。一晩山狩りに耐えれば逃げ切れるはずだよ」
「いや、めちゃくちゃ雑な作戦だし、お前、いま山狩りって言わなかったか?」
「機械警備があるけれど、最終的には山狩り。田舎の悲しさだね。時代が交錯する脱出劇になりそうで、わくわくするね」
「しねぇよ」
「でもさ、村の境の大橋、覚えてる? 山で上手く追手をまいて、あれさえ越えれば隣村だから。こっちの常識通じなくなるから。たかが橋ひとつ。されど橋ひとつだよ。渡っちゃえばもう異世界、異世界。そこまで行ければ勝ちだよ。そのあとは、君の遺産で生きていこう」
「お前、さては遺産目当てで俺の助けを・・・・・・」
胡乱な目を向ける誠通に、気にした風もなく彼はからりと大口で笑った。
「上手く逃げても先立つものがないとね。でも、遺産目当てで殺されるのと、遺産目当ての俺と一緒に生きるのとだったら後者でしょ」
「・・・・・・まあな」
「それに俺、君のこと気に入ってるんだ。なんていうか、一目見た時からびびっときたね。いける、って」
ぐっと近づいた綺麗な顔がふわりと笑みにゆるむ。すべてが淡い白で象られ、繊細な鋭さが薫るその造形は、硝子細工のようだ。そこにあるのはわくわくとどこか浮ついた空気だけだというのに、美しさというものはただそれだけで、他者を気圧すことがあるのだと思い知らされる。
「――なんだよ、それ」
「君のためなら、なんでもできそうってことさ」
見つめられただけでのまれそうになったことが不満で、誠通は顔を渋く変えた。だがお見通しだとばかりに、彼の耳元に笑い声が響く。
「さて、誠通。君、そろそろ部屋に戻った方がいいよ」
おもむろに、ちらりと薄く開いた障子窓の向こうを見やって、灰色の瞳はいった。
「廊下に明かりが見える。岳弥か豊か・・・・・・君がちゃんと部屋で寝てるか、確認に行くんじゃないかな」
視線の先を追いかければ、夜に沈んだ庭のぬばたまの黒の向こう。ゆらゆらと動く小さな光が見えた。広い邸だが、庭には闇を照らすものがない。自分の家の中を動き回るのですら明かりを用意しなければままならないとは、大きな家も考えものだと誠通は思った。
「廊下を通るより庭を突っ切る方が早い。いまならまだ間に合うよ」
悪戯を楽しむように囁いて、彼は誠通の背を押した。
「それじゃあ、また、明日の夜に」
庭に下りると同時にかかった声に振り向けば、夜に溶け込むような離れの影の中で、明かりのもれる彼の居室だけが、白く輝いて見えた。思いのほか眩しくて、目を眇める。光に濡れた透き通った白く細い手が、ひらひらと笑顔とともに誠通を見送っていた。
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