【5】三日目の線


「ぼうっとしていますね」


 そう微笑まれて、誠通は「いえ」と説得力ない力なさで首を振るった。朝の陽ざしが廊下から差し込み、客間の入口で座る岳弥の方を見るといささか眩しい。


「朝食があまり減っていなかったので、少し気になりまして。好みでないものがありましたか? それとも、具合が?」

「すみません。少し、夏バテしたのかもしれません」


 心配げな岳弥に嘘はなさそうで、申し訳ない気がしながらも誠通はかすか誤魔化した。食欲がわかないのは本当だ。だがそれは、夏バテのせいではない。


 昨夜のことは、途中で意識が朦朧としてからあまり覚えていないが、「さすがにここまで助けることになるとは思わなかった。大迷惑」などと愚痴を垂れる声を聞きながら、その肩に腕を回され、なかば引きずられながら庭を横切り、自室の客間に放り込まれた気がする。夢ではない証拠に、朝起きたら寝間着のジャージは泥で汚れていたし、脚のすねのあちこちに擦り傷が出来ていた。なぜ畳に置き去りにしたと一瞬恨んだが、丁寧に布団に入れられていたら、言い訳できない汚れをつけていただろう。彼の雑さにそこは感謝せねばならない。


「少し、外を散歩してきたいんですが、いいですか?」


 日のある間は目立つので、離れにも近寄れない。やることも他にないので尋ねれば、申し訳ない、と岳弥は眉尻をさげた。


「三日の間は家の中にいていただきたいんです。しきたりだと、あまり押し付けるのもよくないとは分かっているのですが、他の村の方々の目もありますし・・・・・・それにちょうどいま、夏祭りの前なので・・・・・・」


 困り顔の岳弥からは、悪い企みを隠しているようなやましさは感じない。その温和な顔立ち、柔らかな所作のせいかもしれないが、とても因習に囚われて、実弟を軟禁し続けているようには見えなかった。


 ただひとつ、夏祭りについて言い淀んだのが、誠通はいやに気にかかった。


「夏祭り前だと、なにかあるんですか?」


 確かにこの邸に来る途中、祭りの準備のようなものを見かけた。神社の印なのだろう。同じ紋が入った神輿や提灯の山だ。そういえば、あの紋も三角が重なる形をしていた。


「外から来た誠通くんには、くだらない話に聞こえると思うのですが・・・・・・」


 尋ねれば、そう前置きして岳弥は話し出した。黒く影になった岳弥の背後、からりと広がる青空がやけに目に痛く見えた。


「三日は客人という習わしは、夏祭りの御祭神に関係しているんです。昔話の類なのですけれどね。この地帯一帯を守ってくれている神様は、村に富を与えてくれるのですが、珍しいもの好きの悪癖があって、外から新しい人間が住み着くたび、攫っていってしまっていたそうです。不気味に思われ人も寄り付かなくなれば、富があろうと、村は寂れていきます。そこで困った古くからの村人たちは、神様とある約束をしたそうなのです。三日間は客人として扱う。けれど、三日を過ぎれば古くからの村人と同じ存在とする、と。そうして、明確な線引きをしたんです」


「その線引きで、なにか変わるんですか?」


「神様と人のけじめですよ。三日目までは外の人です。だから、村人として守らずに、気に入ったのなら攫っていってもいい。ただし、四日を過ぎたら村人になるので、どんなに気に入っていても拐かしてはいけない。神様相手に人の都合だけを押し付けて、まったく攫うな、とは言えないので、そうやって区切りをつけることにした、という話ですね。

 それからこの村では、新しく訪れた者を神様が攫っていったりしないよう、三日間の歓待で家に閉じ込め、守るようになった、と。そうこの話は終わるんです」


 あくまで昔話ですが、と苦笑でまた念を押して岳弥は続けた。


「この話、なんだかんだでご年配の方は大切にしてらっしゃるんです。なので、誠通くんをもし見かけたりすると、あまりいい気がされないでしょうし、夏祭りの前後は特に神様が浮かれているともいわれますから・・・・・・まあ、縁起を担ぐと思って、明日までは家の中で過ごしてください」


 水分補給にと冷たいお茶と茶菓子を置き、岳弥は客間を離れていった。


 この邸にもクーラーが場違い顔でついているのだが、まだそれに頼るほど気温も上がって来てはいない。汗をかくグラスの中で、溶けかけた氷が崩れて、からんと涼しげな音をたてた。蝉の鳴き声が、どんどんと大きくなってきている。


 誠通は、そっとお茶を喉に流し込んだ。紅茶かなにかの類なのか、甘い香りと少し鼻に抜ける独特の風味がする。昨夜の話をまったく鵜呑みにしたわけではないが、その飲み慣れなさが不安を誘って、半分ほど残して誠通はコップを置いた。


 頭が少し、痛む気がした。


 じっとしていても気持ちが鬱屈としてくる。こんな晴れ渡る夏空のもと、それも忍びないと、誠通は邸の内を探索して歩き始めた。中学時代の修学旅行で行った寺社仏閣もかくや、という立派な邸だ。そのせいか、初めてのはずなのに、見覚えのある心地さえする。母屋を中心に広がる各棟へ、橋のような廊下が手入れされた日本庭園を縫って通されており、欄間の細工や襖の取っ手部分の意匠まで趣向をこらされていた。


 広い池を泳ぐ立派な鯉を廊下の縁からぼんやり眺めていると、三男の清治が、離れへと渡っていくのが見えた。手には今朝も上座に据えられていた膳がある。


(まぁ、確かに・・・・・・この時間だと冷めてそうだな)


 昨日の彼の不満と、誠通が食卓に着いた時分にはまだ湯気をあげていた朝食のお粥や焼き魚が自然と思い出された。


 離れへと通じる廊下は、いま清治が通るひとつだけだ。昨夜、誠通は使わなかったが、やはり橋のような形をしていて、屋根の釘隠しの部分に三角を連ねた紋様が描かれていたはずだ。


(――あいつの着物もそうだったな・・・・・・)


 しかしどこで釘隠しの紋様を目にしたのだったろうか。誠通は思うとはなしに、曖昧な記憶をゆるやかに手繰り寄せた。


(ああ、そうだ・・・・・・)


 黄昏時、白い蛇を見かけたのだ。朱色の海を泳ぐようにするりと滑る。夕陽のきらめきが鱗の上でさざ波のように煌いて、目を奪われた。そのまま追いかけて、あの廊下に出て、そして――


(いや、そんなこと、ここに来てからねぇよな・・・・・・)


 昨日の夕暮れは彼に会っていた。不思議と懐かしく慕わしい、真白の男に――。


 誠通はこめかみを強く押さえ込んだ。やはりどこか、頭が痛む。そのせいか変にぼんやりとして、とりとめもない物事が浮かんでは消えていくようだ。


 ひときわ大きな鯉が、誠通のたゆたう思考を引き戻すように、ぴしゃりと尾で水面を叩いて泳ぎ過ぎていった。


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