【4】かみさま
「ふぁ、ひょふふぃひゃひぇ」
「口の中のもんを飲み込んでからしゃべれよ」
夜更け前。岳弥に近寄るなと言われた離れ。白い着物の彼がいると告げた離れ。そこへ、つい足を向けてしまった誠通が、息を詰めて開いた襖の向こう。待ちかまえていた光景が、その痺れるような緊張を粉々に砕いてくれた。
「こんな時間になに食ってんだ」
「いちご大福」
布団の上にしどけなく太ももを晒して胡坐をかき、口を拭った指先についた食べこぼしをぺろりと舐めとる。長く細い指の白に、ちろりとのぞいた赤い舌先が映えた。しかし、だらしがない。
「こんな夏場によくそんなもんがあったな」
「こんな場所でも通販は届くんでね」
離れには他にも部屋がありそうだが、この八畳の一間が彼の主な居室のようだ。文机やたんす、低く小ぶりな書棚が行儀よく並んでいる。この邸のすべてがそうだが、特にこの部屋は、照らすのが電気の明かりでなければ、時代をはるか遡ったような心地がする。そこに通信販売とは、おかしくはないはずなのに、なんともちぐはぐな響きがした。
「とはいえ、物珍しさで手に入れたけど、いまひとつだったな。やっぱり井之村屋のいちご大福が一番おいしいや。さすがに夏は置いてないけどさ。知ってる? 橋を越えた向こうにある和菓子屋。最近店主のおじいさんが腰をやったんで、孫娘が跡を継いで、」
「知るか。ここに今日来たんだぞ。あと後半の情報はいらない」
「ここど田舎だから、そういう話しか娯楽がないんだよ~」
退屈そうに伸びをして、彼はあくびをする。「いる?」と差し出された皿に残ったいちご大福を「食べない」と、誠通は突っ返した。
「腹はいっぱいなんだよ」
「そう? まぁ、今日は確かにいつもより豪勢だったしね。海老真丈のすまし汁に、鮎の塩焼き、夏野菜の天ぷらと鯛めし・・・・・・あれ豊がやってるんだよね。こんなところにいないで、板前とかになればいいのに」
「――なんでお前が夕飯の内容知ってるんだ?」
「いや、俺も食べたし。夕飯の時、膳が五つあったでしょ?」
「ありはしたが、お前・・・・・・いなかったろ?」
すっと五つめの膳の脇を横切った白い影が脳裏に蘇って、誠通は声をひそめた。最初から最後まで彼は姿を見せなかった。三人いると聞いた兄弟の誰でもない。
この邸に、いないはずの彼。
「なぁ、お前は、いったい・・・・・・」
白銀に近い金糸の髪が、布団の上でぐるりととぐろを巻いている。切れ長の灰色の瞳が、誠通を捉えて、ゆるりと微笑みに細められた。図ったかのように薄く開いた障子窓から、夏の夜風が背中を撫でて吹き過ぎていく。
息を飲み込んだ、瞬間。彼はびっと勢いよく親指を立てて、自分を得意げに指し示した。
「俺、神です」
「・・・・・・は?」
「いや、だから、神。神様。ゴッド。分かる?」
「なんも分かんねぇよ。なに言ってやがるんですか?」
「あれ? なに、この反応。思ってたのと違う。もっと怖がるとか、敬うとか、そういう感じないの?」
「ねぇよ。さすがに神とかはねぇよ。信じねぇよ」
心外、とばかりに眉を寄せる男に、棘を隠しもせずに誠通は返す。「雰囲気作りが足りなかったかぁ」と、彼はしょぼくれて肩を落とした。正直、彼が得意満面に親指を突き立てる寸前までは、少々空気に飲まれたことは、誠通は生涯伏せておくことに決めた。
「で、お前は誰なんだよ」
言い淀んだ言葉が今度はするりと口から飛び出してくる。
「いや、嘘は言ってないんだよ? 俺は神様。正確に言うと、そういうことになってるこの家の三番目です」
不貞腐れ気味に、彼は唇を尖らせた。
「この家は、本当は三兄弟じゃなくて四兄弟なんだよ。戸籍とか、そういうお役所のちゃんとした書類の上ではそうなってる・・・・・・はず?」
「なんで疑問形にした?」
「いや、たぶんそうなんだけど、確認したことはないし。なんか偽装工作ぐらいされてそうな気もして、ちょっといま断言避けちゃったよね。この家に対して、そういう悪い信頼感がある」
「なんか、あんまり突っ込みたくねぇ感じなんだけど・・・・・・」
「え~、やだやだ。聞いてってよ! 俺、娯楽に飢えてるし! ついでに君も聞いて損はないから! むしろ、お得だから!」
「ぜったいほとんどお前の娯楽のためだろ!」
お暇しますとばかりに腰を上げかけた誠通の足首を引っ掴んで、彼は駄々をこねる。振り払おうとしても、やはり細いわりに存外強い握力で、誠通の抵抗は徒労に終わった。
「分かった! 分かったから、手を離せ」
「よしよし。分かればいい。あ、長くなるから食べる?」
「いらねぇって」
また差し出されたいちご大福を断って、誠通は仕方なく、彼が腰を下ろす布団の脇に座り込んだ。
「で、本当はこの家の三男のお前は、なんでいないことになってるんだ?」
確かにそれは誠通がここを訪れた理由だった。彼の正体を掴みたかった。黄昏時の出会いは、夢幻ではなかった。彼は今、紛うことなく目の前にいる。なのになぜか一言として、岳弥たちがその存在に触れることはなかったのだ。
「この家に来てから、岳弥あたりになんどか『この家のしきたり』的な話をされたと思うけど、この家はもちろんこの地域一帯は、いまだその前時代的な考え方に憑りつかれてるんだよ。それの最たるもの。俺は、神の依り代という存在なんだ」
「神の依り代?」
眉を寄せれば、外の人らしい反応だと、好ましげに相好を崩された。
「このあたりは、いわゆる大地主であるこの家を中心に集落が形成された村でね。それはいまも変わらない。そして、こんな不便にもかかわらずまだ住む者がいるくせに、発展は望まず、新たな住民を好まない。それにはちゃんと訳があってね。この村、この家を中心になかなかの富を抱え持ってるんだよ。それも秘密で。だからその富の分割と秘密の漏洩を嫌ってるんだよねぇ。
で、その富をもたらしたのが、この家にいる神様。そして、俺はその神様のための依り代。神様のための身体だから、この家に依り代として産まれた時から、俺は人としては存在してないんだよ。だから、いないことになってる。この身分、なんとも不便なものでね・・・・・・。依り代はとても大切に扱われて、なにからなにまで世話されるけど、この離れからはけっして出てはいけないし、外の人間が依り代と会うことも許されないんだ。あと運ばれてくるご飯はいつも冷たい。習わしとか言って上座に飾っとかないでさっさと持ってきてほしい。まあ・・・・・・そういう古いしきたりを、この家も、村も、いまもずぅっと守ってるのさ」
「・・・・・・いや、守ってねぇじゃん」
ふっと憂いを帯びて恋しげに外へと向けられた視線の儚さに誤魔化されそうになったが、冷たいご飯のくだりのあたりと、傍らのいちご大福が正気を取り戻させてくれた。
「お前、夕方しっかり離れ出て庭にいたし、いまも俺と会ってんだろ。確か、三日経つまでは外の人間なんだよな?」
「――お気づきで」
「お気づきだよ!」
馬鹿にしているのかと噛みつけば、なぜか彼は嬉しそうに笑った。
「いやまぁ、守ってるんだよ。俺以外は。でも俺は自分が神の依り代なんかじゃないこと、一番よく知ってるからさ。適当にルール違反をさせてもらってるわけ。もちろん、内緒でね。他の奴らは、しきたりについてなんて言おうと、根の部分では信じてる。だから、俺が抜け出ているのがばれたりすると、血相を変えるだろうし、今後の身動きがとりにくくなる。いまでさえ、こんな感じなんで」
「え・・・・・・えっぐ・・・・・・」
「ね? なに時代だ、って感じでしょ?」
ばさりと彼が布団を捲ると、木製の足枷が無造作に転がっていた。
「や、でもこれ外れてるだろ」
「時代錯誤のおかげで、外せるようになったんだよ」
着物の帯の間から、細く短い針金のような金属の棒を取り出して、事も無げに彼はいう。
「ここから出られないように、俺はいつもこいつが足にはめられてることになってるの。小さいときは本当に、廊下ちょっといったところのトイレでさえ、這っていってたんだよ。信じられる? でも俺はそこで挫けなかったからね。外せるようになってやったよ。で、いまは世話に入ったり、食事運ばれたりする時間以外は、自由にやってるってわけ」
「お前、見かけによらず逞しいのな・・・・・・」
薄い身体と細い手足は、男にしては華奢なつくりだ。話が真実ならば、あまり外に出たり身体を動かしたりしてこなかったのだろう。肌の白さや極端に色素のない髪や瞳のせいもあって、触れれば淡雪のように掻き消えそうですらある。
「この見た目でしおらしくしてると、まさか足枷外して好き放題外を出歩いてるとは思われないよね」
端正な顔立ちは、浮世を離れた趣だ。長く白い睫が落とす影の輪郭さえ絵になるのだから、にやりと浮かべられたその笑顔がふてぶてしくさえなければ、確かに何人でも騙せよう。
「お前が性根悪く強かに育ったのはよくわかったが、それにしたって、いまどきそんな迷信みたいなしきたり、本当に信じて、こんなことしてるのか?」
いまだ信じられなくて、誠通は生活感ある布団の上で、異質なおどろおどろしさのある足枷を横目で見やった。
「不安があると、人は有り得もしないことを簡単に信じたりする。悪い出来事が起きたり、やましいことがあったり――揺れる心を安心させてくれる話は、合理的でなくてもいいんだよ」
紅い唇に、すっと冷たい揶揄の色を引いて、彼は微笑んだ。
「俺の先代が逃げ出した時、村に大雨が降って土砂災害が起きて、何人も亡くなったらしい。連れ戻された先代が、どんな目に遭ったかは詳しくは知らないけどね。本当に二度と離れを出ることはなかったそうだよ。俺たち兄弟も、ここの村の若い者たちも、その話を繰り返し、繰り返し聞かされてる。そうするとさ、嘘だろうと、信じられないと思いつつも、心のどこかに黒い染みみたいに不安が残るんだ。だから、必要に迫られもしないのに、わざと無理にしきたりを破ることがいつのまにか出来なくなる。そんなもんだよ。それに――この村はとっても、やましいことがあるんだ」
灰色の瞳が、ふっと距離を詰めてのぞきこんできた。一瞬、背筋に冷たいものが走る。思いのほか鋭く釣り上がっているせいだろうか。柔和な表情なのに、視線を奪われた瞬間、捕食者に睨まれた獲物の心地がした。
「・・・・・・なんだよ、それ」
「おかしいと思わない? 俺はこの家や村には富があるって言ったけどさ。観光地でもなければ、山がほとんどの農業にも酪農にも不向きな土地。地主だなんていってどれだけ広くもっていようと、こんなもん、都会の一等地に比べたら、二束三文の財産だよ? だから、このあたりは昔から・・・・・・楽しい夢が見られる花の実でもうけてるの」
神様が育て方を教えてくれたんだってさ、と、その依り代は明るくからかう素振りで吐き捨てた。
「俺みたいな存在がいることからも分かるように、ここの神様は優しい善神ってわけじゃない。ご機嫌次第で禍福を呼ぶ、結構めんどうな神様さ。だから自然と、それを信じて行動する者たちのやることも、きな臭ぁくなってったんだろうね。もう神様が先か、信仰が先か分からないけどさ。そんなわけで、ねぇ、誠通くん」
ふいに改まって名前を呼んだかと思うと、彼は聞き覚えのある言葉を口にし、微笑んだ。
「ここで出されるものには気をつけた方がいいよ」
「なんで、だよ・・・・・・」
尋ねながらも、悪い予感がした。食べ物の話を振る前に、彼は何の話題を口にしていたのか。それがいやでも繋がってしまう。
「不幸なことだ。君がここに来た理由。ご両親の交通事故。お悔やみを申し上げるよ。だから、遠い縁戚のこの家に、まだ高校生だからってことだけを理由に呼び寄せられたんだろ? 世話をするよ、って。それで? 君が相続した財産って、どれだけあったんだっけ?」
首を傾げる。さらりと肩口から流れた銀糸の髪が、白い着物の上を滑り落ちる。そのささやかな乾いた音が、ひどく大きく響いた気がした。
「最近取締が厳しくなってきて、捌くのに苦労しているらしいよ。住み込みの使用人、そういえばもういないものね。そこにさ、ほら。遠い親戚の身寄りが他にない、なのに相続財産はたっぷりある未成年が来てくれたとあってはさ。こう、神様の思し召し、って感じがしてきちゃうわけなんだよ。三日待てば、客じゃなくなる。丁寧にもてなす必要もない」
するりと力を失くしていた誠通の指先に、細く長い指が絡んだ。ゆっくりとゆっくりと、白く長いその指先が力を込めて掌を握りしめていく。
「動悸、息切れはしない? 胸は苦しくない? 感覚はしっかりしてる? まだちゃんと、物は見えている? 見えないものが見えたりはしていない?」
握りしめられているはずだと理解しているのに、その手の感覚が強いのか弱いのか。冷たいのか温かいのか分からなかった。間近で見つめられているはずなのに、灰色の瞳がぼやけて霞む。
「このあたりじゃ、医者も駐在もぐるだから。逃げたりなんかできないよ。少しずつ食事に混ぜていく。作ってるぐらいだ。分量なんかお手の物だよ。そうして正常な感覚を奪っていって、三日目の夜さえ過ぎたらさ、君が不慮の事故で亡くなったって、不思議に思う者はだぁれもいないんだ」
笑みを刻む口元がぼんやりとおぼつかない。ただ口を開くたび、ちらちらとのぞく赤い舌先が、全体的に白い彼の色彩の中で、とても鮮やかに思えた。頭がくらくらとしてくる。
「俺なら助けられる」
低く柔らかなその声音だけ、いやにはっきり耳元で聞こえた。
「明日の夜に、またおいでよ」
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