混沌と混迷
地下湖で、十和子は必死に誠の説得を試みていた。
「わたしは、邪気に落ちたらもうわたしじゃなくなるよ? 誠ちゃんは本当にそれでいいの? わたしは、いなくなるのよ?」
「……本当に?」
「わたし、陰陽師でも呪術師でもないもの。邪気をどうこうすることなんて、薄緑でもないと無理よ」
誠は考え込んでしまった。
彼女の思想は大分霧彦により誘導されてしまってはいるが、十和子と築き上げた友情だけは、紛れもなく本物だったのだ。
「……それは困るわ、十和子ちゃんだけだもの」
誠はぽつんと漏らす。
「十和子ちゃんだけが、私の友達だもの。でもどうしましょう。私、霧彦さんに嫌われたくないの。あなたを地下湖に落とさないと、霧彦さんに嫌われてしまうわ。だって十和子ちゃんだって、要さんに嫌われたくないでしょう? 私だってそうよ」
「誠ちゃん……」
やがて、地下湖が近付いてきた。
相変わらず禍々しい気配が漂っている。ここに落ちてしまったら最後、人が完全に人の皮を被ったなにかになってしまうほどの、この世のものとは思えないなにか。
その畔に降り立った途端、誠は十和子を降ろすと、そのまましゃがみ込んでしまった。友禅の袖が地面につくのを気にする素振りもなく、ただ考え込んでいる。
二律背反。
霧彦に傾けてきた愛情に報いるべきか、十和子に傾けてきた友情を大事にするか。
どちらに天秤を傾けても、どちらかが失われてしまう。それは大切なものが少な過ぎる誠にとって、耐えがたい苦しみだった。
「誠ちゃん、誠ちゃん……」
「私……どうしたらいいの」
ポロリポロリと泣いている誠に心底ほっとしつつも、外れたほうの肩を、十和子はぐっと力を込めて押さえた。ぐっと外れた肩をくっつけると、ミチミチと筋は聞こえてはいけない音を立て、十和子は軽く悲鳴を上げた。だが。未だに痺れと熱を伴ってはいるものの、外れてぶら下がっていた腕が動くようになった。
(あとは……得物があったら……)
十和子は考えた。
誠を元に戻したい。要を助けに行きたい。……できることならば、霧彦を説得したいところだが、彼はなにかについて激しく怒りを溜め込んでいるように思えた。
十和子も別にお転婆なだけで、誰彼かまわず優しくも強くもなれない。だが。
好きな人の友人を、友達の好きな人を、敵だからという理由で刀を向けたくないだけだ。
****
誠は元々、華族令嬢である。
しかし大正も半ばを過ぎた頃、既に華族の力は削り落とされていた。
優れた才を成した者たちは、財閥をつくって富を蓄えているが、ほとんどの華族はやんごとなき貴族の家系であり、当然ながら商売なんかしたことがなかった。どれだけ頭が働いても、金の稼ぎ方を一朝一夕で覚えられる訳もなく、誠の実家も少しずつお金がなくなっていった。
彼女が胡蝶女学館に入った頃には、周りからはいい顔をされなかった。
華族令嬢が入るにはやや格が落ちるが、庶民からしてみればどれだけ没落寸前の華族であったとしてもお嬢様なのである。
勝手にお金を持っていることにされ、勝手に気位が高いとラベルを貼られる。
そんな訳ですっかりと彼女は学校でも浮いてしまっていたが。同じく浮いている子がいたのである。
「まあ……いくらなんでも彼女、汗臭くない?」
「実家でずっと鍛錬なさってるんですって。なにと戦うつもりなのかしら?」
「まあ……それって結婚の役に立って?」
周りから白い目で見られても、どこ吹く風でお下げを揺らしながら歩いている少女を見かけたのだ。背丈は年頃の少女たちより少しだけ高め。ふたつのお下げをぶら下げながらも、彼女の動きはいちいち快活で、いわゆる女学校に通うような裕福な少女たちからしてみれば、得体の知れない生き物だったのである。
そして彼女は普通に誠に声をかけてきたのだ。
「一緒にお昼ご飯を食べましょう」
「……え?」
「わたし、どうも乱暴者に見えるみたいで。実家が剣術道場でね、鍛錬をしてから学校に通っているんだけれど、そのせいかいっつも汗の匂いがするみたいで……わたしそんなに匂う?」
「……いいえ。全然」
周りがさんざん揶揄しているが、実際に井戸で水を浴びてから学校に通っている十和子は、人が言うほども匂いがしなかった。
こうしてふたりでお弁当を食べる中になったのだ。ふたりでさんざん話をした。
十和子が元々士族の娘であり、実家の関係者が皆警察の者だとはこのときに知った。彼女の父は警察官たちに剣術指南をしていると。
「わたし、人より強いみたいなの。最初はわたしが女だから手加減をしてくれてるのかしらと思っていたけれど、どうも違うみたいなのよね。そのせいか、どうにも学校の子たちには怖く見えるみたいで」
「そーう? 格好いいわ。だってセーラー服と木刀って似合わない?」
「もーう、似合うとか似合わないとかじゃなーい」
ふたりでカラカラと笑っていたら、どこか満ち足りたのだ。
誠は学校で十和子と他愛ない話をし、学校帰りに少女小説を買って帰る。そんな生活を送っている中、彼女に見合いの話が持ち込まれたのだ。
「この方、立派な方なのよ。神社のお偉いさんの息子で」
「……お母様、私、まだ学校に通いたいのですが……」
この時代、親が許嫁を決めたら最後、学校を辞めさせるのが当然だった。その上よそに嫁いでしまったら町を離れてしまうため、女学校でできた友達とも二度と会えなくなってしまう。それが嫌で、誠は必死で抵抗したところ、母は「そうねえ」と頬に手を当てた。
「たしかに我が家のパトロンにはふさわしいけれど、向こうから結納金を上げてくださるよう、もうちょっと引き延ばしましょう」
誠の家はお金がない。稼ぎ方がおぼつかない以上、いいところに子供を嫁がせ、結納金をもらうしかなかった。既に兄が嫁を娶ったことで結納金を支払ったことでかつかつになったため、どうしても次の金が欲しかったのである。
そのため、誠の難色を示したことで、かえって母から気前よく文通という形での婚約者との交流をすることになったのである。
誠が普通の女の子として過ごす時間を与えたのが十和子だとすれば、誠に恋する少女の時間を与えたのは間違いなくこの文通相手であった。
彼が大学で勉強していることは、誠からしてみると難し過ぎてよくわからなかった。しかし彼はどんな話題を向けてもきちんと返事をしてくれるため、嬉しくて毎日のように手紙を送ったのである。
本来ならば電話でもしていればいいだろうに、そんな長いこと電話をしても相手が迷惑であろうと、なかなかそんな勇気が湧かなかった。
毎日のように手紙を送り続ける中。
「誠さん……ですよね?」
「はい?」
「自分です。霧彦です……この辺りを通りましたので。本当に手紙通りの美しい方ですね」
そう言われて、スーツを着た彼に頭を下げられた。
ここで誠はおかしいと思わないといけなかった。
手紙でしかやり取りをしていない相手と、待ち合わせもしていないのにどうして相手が誠だとわかったのか。いくら誠の実家の邸宅を用事で通るからと言っても、ポストの位置まではわからないだろうに、そこでどうして見ず知らずの娘を誠だと断定できたのか。
しかし誠は夢見る少女であり、彼に溺れてしまったのだ。彼に出会った途端に、思わず彼女は自分自身を抱き締めた……着ていた着物は安い綿の着物で、部屋着同然のものだったのだ。髪も気が抜けて総髪で結ってもおらず、リボンのひとつも留めていない。
しかし霧彦に優しく微笑まれたら、もう駄目だった。
彼女は恋に恋してしまったのだから。
霧彦が誠のことをひと目見てわかったのは、他でもない。彼が彼女に送った文字の一文字一文字に術式を仕込んでいたからに他ならない。陰陽術よりも呪術のほうが決まりが存在せず、独自の呪いを産みやすい背景がある。その中で、霧彦に入れ込むように、恋するようにと力を施していったのである。
これが陰陽師であったら、手紙の気配に警戒して読む前に燃やしてしまっただろうし、十和子のように邪気の気配のわかるものであったら警戒して破いていただろうに。残念ながら誠はごくごく普通の人間であった。
だからこそ、誠は彼に思考を操られていることに全く気付くことがなかった。
一度心さえ奪ってしまえば、行動を操ることはたやすくなる。彼は彼女がどんどん手紙を書く頻度が上がるように細工をした。そのことで、ポストの前で出会うという運命を演出したのだ。
運命を演出してしまったら、あとは早かった。
可哀想な恋に恋する少女は、自分の気持ちが操られていることに気付かぬまま、彼に溺れていった。幼い少女がごっこ遊びをするかのように、彼女をどんどん呪術師の思想に染め上げていったのである。
そしてふたりで地下湖の邪気を溜め込んでいった。
鬼門の鬼を祓われてしまっても、ここに邪気を溜め込んでおけば、子鬼はいくらでも育てられる。子鬼を大鬼に育て上げたときは、誠は小さく手を叩いて喜んだ。
「霧彦さんはすごいんですね」
「いいえ。これくらいはあなたでもできるようになりますよ」
「そうでしょうか?」
霧彦からしてみると、彼女は哀れな少女であり、自分自身に操られている自覚すらない愚かな娘であったが。
同時に捨て去ってしまったものの面影を彼女から見出すようになっていった。
既に霧彦には故郷はない。寺社は壊されてしまい、呪術師に拾われた彼は、腹いせに故郷の町を消滅させてしまったのだから。
都合のいい場所の鬼門から邪気を溜め込んで、それで新たな人をつくる。
呪術師たちが行おうとしている計画に加担するために、捨て駒として選んだ少女。自分の現在の立場も呪術師が用意したものであり、実在とはかけ離れているが。
それでも無邪気に信じ、慈しみ、霧彦に寄ってくる少女。
可哀想で愚かな少女の、恋に恋する瞳に落ちてしまったのはいつからなのか、わからなかった。
(どうせ術が解けたら、この気持ちも消えてしまうから……)
霧彦はそっと見なかったことにしてしまった。
彼は見て見ぬ振りをしなければ、自分が今までしてきたことの罪悪感を覚えたら、もう身動きが取れないことに気付いていたから。
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