地下湖と国造り

 胡蝶女学館。

 地下に邪気の湖を孕んでしまったこの学校の校庭で、忘却香を焚き込めながら、要は作業を行っていた。

 既に子鬼も祓い、地下湖に鬼たちが落ちないようにと結界を施している。

 その中で、札を貼っては呪文を唱え、人形を飛ばしては手印を切っていた。


「臨兵闘者皆陣列在前……召喚、霊符神が一柱、北斗七星」


 校庭のひとつひとつに、呪術師の繰り出す呪術への反逆術をかけていく。北斗七星は陰陽術の中でも極めて高位の星神であり、その力を借り、校庭への守りを固めていたのだ。

 要が霧彦の行ったことで気にかかっていたのは、彼が執拗に十和子と薄緑を狙っていたことであった。

 地下湖に十和子を連れ去ったり、先日の警察官の懇親会で襲ったり。

 最初はあの幼馴染が自分に対する執着と嫌がらせのために、彼女を人質に取ろうとしていたのではと考えていたが。

 それにしては、薄緑を狙っていた意図が読めない。


(霧彦は……なにを考えている……? それにわざわざ十和子くんの友人の誠くんまで巻き込んで……)


 要にも、霧彦が本気で誠と婚約をする気があるのか、彼女の気持ちを利用しているのかがわからなかった。

 なによりも、十和子と薄緑。それをひと組で考えていた節がある。

 薄緑は長い平安刀であり、腕がいい人間でなければ長過ぎて構えることすらかなわず、下手に振るえば折れてしまう。それこそ日頃から木刀で鍛錬を積んでいるような十和子や道場の人間たちでなければ構えることはできないだろうし、十和子のようなしなやかな動きでなかったら、あの薄い鋼の刃は簡単に折れてしまうだろう。


「おやおやおや、恋人を放っておいて、庭でままごと遊びとは……陰陽師もずいぶんと暇になったものだねえ?」


 要の考察は、すぐに消し飛んだ。

 忘却香をものともせず入ってくる人間なんて、限られている。

 スーツ姿に髪を脂で撫でつけた霧彦に、要は視線を上げた……そして。

 不自然に腕をぶらんと垂らした十和子を、もう片方の腕を肩に引っ掛けて歩いている誠の姿。それに要は目を吊り上げた。


「……霧彦、十和子くんになにをした?」

「なにもしてないよ、自分は。ただ、自分のお転婆な婚約者が肩を外しただけでね」

「まあ、お転婆だなんて。私、十和子ちゃん以外の肩を外したことなんてないわ?」

「これは失敬。友達の前でしかお転婆な真似をできないなんて、誠さんもずいぶんと不自由な暮らしをなさっているもので」

「いいえ。今を不自由だなんて思ったことはないわ。だって、霧彦さんがいらっしゃるもの」


 要の言葉を聞いているのか聞いていないのか、霧彦と誠は勝手にふたりの世界を創り上げる。それがあまりに自然で、腕を力なくぶら下げた十和子さえいなければ、微笑ましい婚約者同士の会話にしかならなかっただろう。


「十和子くん……!」

「……要さん、ごめんなさい……ご迷惑をおかけするつもりは……」

「いや、命があるならば……」


 要がそう言いかけたところで「残念だったねえ」と霧彦がふたりの会話に割って入る。


「彼女はいい体をしているからね。だから連れてきたんだよ」

「……なにを言っている?」

「このご時世、平安刀を振るえる人間は限られているからね。彼女にはどうしても来てもらわなくてはならなかったんだよ。ねえ、誠さん?」

「はい」


 もし誠に呪術で操られている気配があれば、それでよかったんだろうが。

 誠は文通を通して、少しずつ。本当に少しずつ霧彦の思想に誘導されてしまっていた。まさか文通相手が、自分の思考を操作しているなんて普通は思わないだろう。そもそも要ですら、偵察班の藤堂が手紙を盗み取って内容を検めなければ気付くことすらできなかった。

 だからこそ、彼女は全く変わらないまま、ただ恋情だけを突き動かしている。

 そして、どうして十和子と薄緑に執着していたのかもわかった。


「……なにをやろうとしているのか、本気でわかっているのか?」


 こんなこと、現在進行形で肩が外れて戦うことすらできない彼女に言える訳がない。

 しかし霧彦は薄情けだ。要がどれだけ十和子を気遣っていても、彼はそれすら嘲笑う。


「わかっているとも……あれだけの邪気の湖の中に漬け込めば……立派な破壊兵器になるだろうさ」

「大丈夫よ、十和子ちゃん。怖くないからね。なにもかも終われば、それでおしまいなんだから」

「…………っ」


 十和子は既に、目の前で子鬼に取り憑かれて暴れた警察官を目撃している。

 大の男どころか、警察官に指導している彼女の父すら者ともしないほどに、正気を失った人を。

 子鬼が三、四匹であの威力だ。もしあの地下湖に溜まっている邪気の中に突き落とされたら……それはもう、人と呼べるものなのか。

 彼女の肌は粟立っている。恐怖と絶望で、歯がカタカタと鳴り、唇はプルプルと震えている。悪意はその暇すらも許してはくれない。


「それでは誠さん。彼女を地下湖へ……ここはひとつ、この陰陽師を足止めしなければならないからね」

「……ほざけ」


 要は人形を取り出した。

 なんのために結界を張り巡らし、罠を仕掛けていたかというと、全てはこれ以上この鬼門を呪術師たちに利用されないためである。

 それを全ておじゃんにしようとする呪術師を、許せる訳がない。

 ……それがたとえ、同じ釜の飯を食べた幼馴染だとしても。

 人形は鋭く霧彦に舞うが、それは霧彦の周りをひらひらと舞う黒蝶が弾き飛ばした……いや、黒い蝶に見える折り紙だった。


「久し振りに遊べるようだね、要」

「……これは遊びなんかじゃない」


 陰陽師と呪術師。

 かつては同じものだったはずが、こうも道を違えてしまった幼馴染。

 ふたりの戦いの火蓋は、切って落とされた。


****


 ふたりの人形と折り紙が飛び交い、だんだん火の粉と光が飛び散る戦いになってきた。

 本当だったら助太刀に行きたい十和子だが、肩を外されてまともに立つことができず、なんとか無事な腕を使って外れた肩を元に戻したくとも、無事な腕は誠に掴まれているためにそれすらできないでいる。

 誠は十和子と一緒に「さあ行きましょう」と歩きはじめた。

 いつか霧彦に落とされたときと同じく、足下にぽっかりと穴が空き、そこに引きずり落とされていく。誠はそれをのんびりと行っていた。


「……誠ちゃんは、呪術師になったの?」


 十和子はそう尋ねると、誠は「いいえ」といつも通りに答えた。


「これは霧彦さんに教えてもらった道よ。その道の通りに歩けば、行きたい場所に行けるんですって。昔から呪術師や陰陽師は、歩く歩幅や歩数を計算して、それらを市中の人や貴族に教えていた……それと同じ要領で、歩くべき道っていうのがあるんですって」

「ふうん……」


 そういえば、平安時代は陰陽師がわざわざその日の歩数、使っていい道悪い道までを計算して、貴族に引き渡していたと聞いたことがある。そして呪術師は似たようなことを市中の人間に指導していたんだろうか。

 そこまで考えて、十和子は尋ねる。


「誠ちゃんは、霧彦さんのことが好き?」

「ええ、好きよ」

「どういうところが好きなの?」


 もし彼女を止められるのだとしたら、ここしかないと十和子は踏んだ。

 彼女がただ操られているだけならば、十和子はなんとか彼女の腕を振りほどいて外れた肩を治してここを脱出するが。もし誠が心の底から霧彦が好きならば、他の方法を考えなければならなかった。

 十和子の言葉に、誠は「そうねえ」と小首を揺らした。

 相変わらず誠は、十和子のよく知っている夢見る文学少女のままだった。


「私、婚約者が決まったのが女学校に入学が決まった年ね。その頃から、長いこと文通をしていたの」

「そんなに長く……?」

「ええ。でも私、当時は今よりもずっと本を読んでいたから、嫌で嫌でたまらなかったのよ。私はもっと自由に生きたい。せめて学校でエスのお姉様をつくりたいって、そればっかりでね」

「それは……」


 それはあまりにも十和子にとって意外だった。

 いつも文通相手の返事が届いたと嬉しそうに話していたから、相手が霧彦かどうかはともかく、その文通相手のことが大切なのだろうと思っていたのだから。

 誠は夢見る口調で言う。


「霧彦さんは、毎日私に手紙をくれたわ。今日咲いた花の色とか、今日読んだ面白い新聞広告の切り抜きとか。私もそれに必死になって返事をしていた。今思っても不思議ね。嫌で嫌でたまらなかったのだから、もっと文通をするときに、間隔を空けてもよかったはずなのに、私毎日手紙を書いてたんだわ。おかしいったらないわね」

「そうなんだ……」

「霧彦さんはね、昔友達を無くしたから、寂しいって書いてたのよ」


 それに十和子は押し黙る。

 要は自嘲的に語っていた、霧彦との思い出。彼に裏切り者だと思われていることを、悲しんでいた。

 霧彦にとって、もう要は幼馴染ではあっても、友達ではなくなってしまったんだろうか。

 要は今でも、彼のことを大切に思っているし、呪術師を止めたいと思っているのに。

 誠は押し黙った十和子に気付いてか気付いてないのか、言葉を続ける。


「私ももし、十和子ちゃんと喧嘩して二度と会えなくなったら、後悔しちゃうわねと思ったのよ。だって私たち、結婚したらもう二度と会えなくなってしまうかもしれないのよ? そう考えたら、霧彦さんも友達が大切なのは一緒なのかと思ったのよね。一緒なところがあるのは、嬉しいわね?」


 それに十和子はなんとも言えなくなってしまった。


(やっぱり……誠ちゃんは誠ちゃんなんだ……誠ちゃんは、本気で霧彦さんを)


 そこで考えて、ふと気付く。


「誠ちゃんは私を邪気に落としたいの?」

「そうね、そうしたら、誰も手に負えないような平気になるから、十和子ちゃんは」

「……そうなったら、今の私はもういなくなるよ? 誠ちゃんは本当にそれでいいの?」

「……え?」


 誠は驚いたように目を見開いた。

 ……誠は思考を誘導されていて、あまりにも霧彦に都合のいいように擦り込まれてしまっていたが。それでも十和子に向けている友情は、本物だったのだ。

 十和子を痛めつけても、彼女はいなくならないから誠は平常心でいられた。

 しかし、邪気の染み込んだ人間は変質してしまうということを、十和子は知っている。

 誠にそれを告げたらどうなるのか。これは一種の賭けだった。


「邪気に染められた人は、陰陽師でもいない限り、元には戻らないよ? 誠ちゃんは、本当にそれでいいの?」


(わたしの友達を……返して)


 これは十和子にとっての祈りだった。

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