婚約者と困惑
要に言われ、今日も今日とて邪気祓いの手伝いはない。
しかしなぜか誠の婚約者と会うことになり、十和子はなんだかなあという思いを抱えながらも、一応着物を合わせてみる。
誠と婚約しているくらいだから、可愛いからといって銘仙の着物を着ては失礼だろうか。しかし友達よりも派手な着物を着てもおかしいし、そもそも十和子も華族令嬢が持っているような着物なんて持っていない。
困った困ったと思いながらも、一応は縮緬にアールヌーボーの大きめな花模様を合わせたものにした。これならば、布もそこまで失礼ではないし、若々しく見える。誠のことだからもっといい着物を着ているだろうから問題ないだろうと思いながら、それに袴を合わせた。
髪はいつもの三つ編みお下げをくるくるとラジオ巻きにしておいた。
「ふう……」
約束の場所に向かいながらも、十和子はどうにも落ち着かない。
(わたし、誠ちゃんの婚約者との逢引になんて、本当に同席していいのかしら……)
何度断っても同席を求められた以上行くしかないのだが。十和子は困惑しながらも、カフェーに着いた。
ここのカフェーは女学生にはいささか値が張り過ぎ、遠巻きにしか見たことがない店であった。中では煙草を吹かせたスーツの人々が、新聞を読んでいるのが見える。大人な雰囲気に十和子には見えた。
中に入るのに少しばかり怯んでいたら「十和子ちゃん」と声をかけられた。
誠である。着ているのはやはりというべきか友禅で、しかもアールデコのいそとま模様が描かれていて華やかだ。髪型はいつもの夜会巻きに蝶の簪を付けて愛らしさも足されている。彼女なりの勝負服なのだろうと、十和子にも察することができた。
「お待たせしちゃってごめんなさいね。中に入らないの?」
「うーんと……普段行くミルクホールや喫茶店と雰囲気が違うから、なかなか入れなくって」
「そうね、ここはお酒や食事も出すから、普段行く店とはたしかに雰囲気が違うかも」
「ひえ……」
基本的に十和子たち女学生が入るのは純喫茶が多く、純喫茶では酒の提供はない。しかしカフェーは名前の通り珈琲の他に、酒や洋食の提供があるのが一般的であった。純喫茶の軽食とはいささか訳が違う。
十和子は普段の気風のよさから、普段滅多に入らない場所へと進むのに、思わず誠の袖を晴れ着が傷まぬ程度に掴みながら、中へと入っていく。
「いらっしゃいませ」
「予約していました、友枝です」
「友枝様ですね、どうぞ奥へ」
店の外からでも眺めることのできた席から一転、女給に連れてこられたのは、奥まった個室であった。この手の部屋までカフェーにはあったのかと、十和子は目眩を覚えた。
カフェーの中でも、有力者たちが会員となっている場所が存在している。その場所は会員以外立入禁止の部屋が存在し、そこでゆっくりと寛げる空間の提供を受けているのだ。もちろん会員費用は馬鹿にならない、富裕層専用の空間ではあるが。
十和子が勝手に震えている中、誠は十和子がガクガク震えているのをキョトンとした顔で眺めている。
「十和子ちゃん平気? ご飯がおいしいから、それ食べて待ってましょうよ」
「そう、なんだけど……なんだかわたしが場違いな気がして……あのう、本当にわたし、誠ちゃんの婚約者さんと会っていいの……? カフェーの個室に連れてこられただけで、もう震えが止まらないんだけど」
「まあ、十和子ちゃんったら、いつも勇猛果敢なのに、そんなに脅えなくっても誰も取って食べたりはしないわ」
そう言って誠がくすくすと笑うのに、十和子は一瞬だけザラリとしたものを感じた。
(ん……? わたし……誠ちゃんの前で、剣を振るった覚えなんてないんだけど)
元々胡蝶女学館は、女学校に通えるような立場の人間しかいない。士族の道場主の娘の跳ねっ返りなんて、せいぜい十和子くらいだ。彼女が普段父以外にも負けないような剣術の腕をか弱い女の子たちに見せたとしても、歓声を上げられるどころか脅えられるだけだろうからと、彼女も進んで見せた覚えはない。
だから十和子も、誠には怖がらせないよう、要と逢魔が時に邪気祓いや鬼退治をしているなんて言ったことは一度もなく、要としょっちゅう一緒にいるのを、誠が夢見る目で見つめてきても「誠ちゃんは少女小説が好きだから、わたしたちのことをエスだと思って眺めてるんだなあ」くらいにしか思っていなかったが。
ここで「気のせいかな」と思えればよかったが、今日は誠らしくもない強引な手段でカフェーに連れてこられたせいで、余計に疑念が付きまとう。
(まさか、誠ちゃん……呪術師に操られたりしてる……?)
小間物屋の女店主のことを思い出し、先日の警察官のことを思い出し、またもザラリとしたものを覚える。
ふたりとも加害者ではあったが、同時に被害者だ。警察官に至っては、自分の意思なんて全く関係なく暴れ散らかしていたのだから、余計にだ。
(どうしよう……今、要さんを呼ぶ訳にもいかないし、それに別に……邪気は見えないんだよね)
もしおかしな気配があったら、彼女には見えるし聞こえる。一般人にはまず見えない邪気も子鬼も、十和子には見えるのだから。
だからこそ、誠がおかしいのだとしても、彼女にはどこかおかしいと気付けるはずなのに、どうしてもいつもの誠にしか見えないから困っているのだ。
「それじゃあ、ポークカツレツにマカロニグラタンを頼もうかと思うけれど、十和子ちゃんは同じものでいい? もし落ち着いたものが食べたいんだったら、カレーライスやビーフシチューもあるのだけれど」
「ええっと……じゃあ、誠ちゃんと同じもので」
「はあい」
誠がチリンチリンと備え付けの鈴を鳴らすと、女給がすぐに飛んできて、注文を承って去って行った。なるほど、と十和子は思いながら去って行く女給を眺めていたところで、ようやっと個室に「失礼するよ」と声が響いた。
「まあ、いらっしゃい。霧彦様」
そう夢見がちに誠が出迎えた相手を見て、十和子は顔面が引きつるのを感じた。
仕立てのいいスーツを着こなし、髪を脂で撫でた髪型。そして狐面のように鋭い瞳、口元……。怪盗乱麻その人であった。
思わず十和子が立ち上がると、椅子がガッタンと音を立ててひっくり返るが、十和子はそれをかまっている余裕がなかった。
「あなたが……! どうしてここに……!?」
「あら? 十和子ちゃん、霧彦様と知り合いなの?」
「おやおや、初めまして、九条霧彦と申します。誠さんのご学友とお伺いしましたが、どこかでお会いしたことがありましたか?」
流れるような弁舌。そこに淀みはなく、逆に十和子の椅子をひっくり返した件に一切触れない辺り、彼がとぼけきっているのが透けて見える。
十和子は、またしても得物がない中で彼に遭遇してしまったのを悔やむ。しかも今日に至っては、なにも知らないはずの親友の誠の前なのだ。
「とぼけないで……! あなた、前に学校に予告状を出した人でしょう!? それにこの間も会ったし」
「あら霧彦さん。私というものがありながら浮気?」
「滅相もない。自分は誠さんひと筋ですよ」
どうにも、十和子が激昂しても、誠と霧彦と名乗る怪盗乱麻は勝手にふたりの世界を創り出す。十和子はそれに冷や水をかけられた思いに駆られればいいのか、それともふざけないでと怒るべきなのかがわからない。
十和子は怒りで震えながらも、ひとまず椅子を元に戻そうとしゃがんだ中、霧彦はにこやかに告げてきた。
「まあ……浮気ではありませんが、君に興味があるのは事実です。邪気に飲まれることなくここまでやってこられたのは、賞賛に値しますから」
「……どういうこと?」
「簡単な話ですよ。このカフェーは既に、邪気に飲まれていますから」
「……っ!?」
思わず十和子は息を飲んで、辺りを見回した。
邪気の発する悪寒はない。子鬼の現れる気配も、あの訳のわからない鳴き声も聞こえない。まやかしかと思うが、そういえば。
いくら個室とはいえど、この部屋はあまりにも静か過ぎる。外の音が、女給の注文を取る声が、食器を動かして食事をする物音が、どこからも聞こえてこない。
そして、この状態でなんの戸惑いも疑問も上げない誠。十和子は霧彦に声を張り上げた。
「あなた……誠ちゃんになにをしたの!?」
「ですから、彼女は自分の婚約者ですよ。なにもしていません」
「嘘! だってあなたは……」
「ねえ、十和子ちゃん」
誠はのんびりと席から立ち上がると、十和子の隣にしゃがみ込んだ。そして、彼女と目を合わせる。
「私、騙されていないわ。ただ、私は霧彦さんが好きなだけよ?」
「誠ちゃん。落ち着いて。この人は……」
「呪術師さんなんでしょう? 知っているわ」
「……っ! だったら……そもそも、おかしいでしょう? あなたと呪術師が婚約なんて……」
「あら? どこも変じゃないわよ、十和子ちゃん。十和子ちゃんが要さんを好きなように、私は霧彦さんを好きで、なんでも肯定して、許して、愛している……それだけだわ? どこも間違ってないでしょう?」
おかしい。おかしい。
わかっていても、十和子は誠の言葉をひとつも否定しきれなかった。だって誠は、本当に怒りに燃える呪術で濁った人の目でもなければ、邪気に冒されて暴走しはじめてしまった正気を失った目でもない。
本当に胡蝶女学館に通いはじめた頃から知っている、夢見る恋に恋する文学少女の瞳のままなのだ。
ただ、好きになった相手が悪いだけの。
「……誠ちゃん、どうしてわたしを……この人に引き合わせたの?」
「あら、だって決まっているわ」
そう言いながら、誠は十和子に抱き着いてきた。その力は、普段の華奢でか弱い女の子のものとは思えないほどに力に満ち、日頃から武道に励んで鍛えている十和子の腕すらミシミシと音を立てるほどの勢いであった。
「いった…………っ!!」
十和子は悲鳴を上げたとしても、誠は聞きやしない。
ただ、いつもの夢見る少女の声で囁くだけだった。
「私、霧彦さんのお役に立ちたいんですもの。この方が陰陽師と戦うために、盾が欲しいっておっしゃったの。十和子ちゃんだったら、立派な盾になるんでしょう? だったら、私は霧彦さんを助けるわ」
「……誠ちゃん、やめて」
「大好きよ、十和子ちゃん」
ミシミシと音を立てる。肩が外れ、十和子は悲鳴を上げるが、誠はちっとも気にしない。
「でもね、それ以上に霧彦さんが好きなの」
彼女はあまりにもいつもの、夢見る少女の誠であった。
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