思い出「蒼」

 夢を見て、夢から覚め。果たして、己とは本当に今ここにいる自分自身なのか。それとも、この世界はただの夢で、夢と思っていた世界にいる自分こそが、本当の己ではないのか。

「胡蝶の夢」と言うのは、有名な話であるが。

 電車に揺られ、白光から目覚めると、思う。


「──おはよう、蒼」


 今の自分が、本当の己ではないのか。さっきまでいた世界は、本当は、ただの悪い、長い夢だったのではないだろうか。

 電車のボックス席で向かい合いながら、微笑んで声をかけてくる彼女を見て。つい、願ってしまった。


 夢であってくれたら、良いのに。




『君の生きている世界は、今だ』


 だけど


『言ってやらないと、いけない事があるんだ……』


 世界が、そんなに都合の良い存在でない事は


『──ああぁぁぁぁぁぁぁぁ──!!』


 俺が1番、知っている。



 ────────────────────



「──俺、どんぐらい寝てたよ」


 背伸びして、目の前の麗奈に聞く。車窓から見える海の景色は、強く眩しく、蒼に輝いていた。


「んー……1時間ぐらいじゃん?」


「何駅来た?」


「大体10」


「ふーん」


 腕時計に視線を向け、時間を確認する。9時5分。

 確信を得た。この世界は、俺と麗奈が学校をサボった時の世界だ。

 良く、覚えている。

 俺が中3で、麗奈が高2の時の、夏休み直前のある日。いつも通り2人で登校して、いつも通り、2人で電車に乗って。

 いつもだったら、学校の最寄り駅が同じだったから、電車を降りたら分かれて、各々の学校に向かって。

 ──だけどその日だけは、無言のまま2人とも電車に残っていた。

 そのまま言葉を交わす事も無く、2人して車窓を眺めたり、スマホでも見てたり。

 その内に俺が寝て、ずっと、電車に揺られてた。

 これは、あの時の──「思い出」。


「ねぇねぇ、見なよ」


 感慨に耽って車窓を眺めていたら、麗奈がこちらにスマホを差し出してきた。

 画面に映っているのは、着信履歴。1番上には、「お母さん」と書かれている。表示を見れば、3分前だった。


「今頃絶対母さんブチギレてるよ」


 笑いながら言われ、ふと、自分のスマホを覗いてみる。ロック画面には、「着信がありました」の表示が。


「……俺のとこにも電話来てるわ」


「絶対母さんじゃん。家帰ったらマジぶっ殺されるー」


「──帰ったら、な。そうだよな」


 車窓から視線を外し、麗奈の胸の辺りを見る。目を見る事は、何だかできなかった。


「どしたん?何かキモいぞ」


「いやぁ、な。ここまで来たら、もういっそ帰りたくねーなぁって、思っちゃってさ」


「マジ怖いもんなぁ、うちの母さん」


 笑いながら、言葉を交わす。

 2年ぶりに見た彼女の笑顔に心は揺れ、大きな感動とほんの少しの恐怖心が、心に芽生えた。


「──あぁ、怖いよ。滅茶苦茶、怖い」


 ──怖い

 そう、怖かった。

 あの日々に、帰る事が。

 この人の、いない日々が。

 俯き、深く息を吐く。

 人のあまりいない快速列車に、「まもなく──」と、知らない駅名を告げるアナウンスが流れる。


「──そろそろ、降りよっか」


 麗奈は、じっと車窓を眺めている。ただ、それだけだった。



 ────────────────────



 電車を降り、知らない駅に足を踏み入れる。冷房の効いた車内から出ると、むわっとした熱気と湿気が、微かに気持ち悪い。

 だが、見える景色は、そんな気持ちも吹き飛ばす絶景であった。水平線まで蒼く輝く夏の海に、水平線に乗っかっているかのような、大きなかみなり雲。平日の朝から海で遊んでる人々の、幸せな声がこちらまで聞こえる。


「んで──降りてみたは良いけど、どうするよ」


「さぁ──改札出ても良いけど、運賃バカにならないからね」


 と言いながら、ぷらぷらとホームを歩いていく麗奈。

 離れていく彼女の背に、つい、手を伸ばしてしまう──そんな、まだ麗奈に執着している自分に気づいて、少し、引っ込める。

 カミサマの言葉は、まだ、胸に引っかかっていた。

 カミサマの言葉が、今、俺を引き止める唯一のプレーキになっていた。

 行き場を失った手を握り、彼女についていくように、俺もまた歩みを進める。

 言ってやらないといけない言葉が。

 言ってもらわないといけない言葉が。

 交わしていない、俺たちの想いが。

 まだ、残っているのに。

 それなのに、何も言えず、ただ揺らいでいるだけの己の心が、ただ憎くて。

 麗奈の後ろをついていく──歩いて、歩いている内に、麗奈が振り向き、こちらに手を差し出してきた。


「写真」


「え?」


「持ってきてんでしょ、どうせ。撮ろうよ、せっかく来たんだしさ」


 ホームの端っこ。日向と日陰の、境目で。

 少しだけ逡巡しつつも、眩しさに目を細めながら、小さく頷いた。



 ────────────────────



 日陰にしゃがみ込み、カメラを出す。学校じゃ写真部に所属していたから、家から持ち出す頻度は決して少なくは無かった。

 麗奈に手渡すと、ポチポチと適当にいじるなり、こちらに再び返してきた。


「使い方よく分かんない」


 分かんない癖にカメラを要求してきたのか。そういう無鉄砲さと言うか、「やるだけやってみる」みたいな精神は昔からあったが。既に扱いには手馴れたカメラを手に、設定を進めた。


「で、どこでどうやって撮るのさ」


 カメラの画面を覗きながら、問う。どうせ何も考えちゃいないだろうが。


「んー……ここ、とかどうよ」


 カメラから視線を上げ、麗奈の指差す方を見る。

 その先は、駅にならどこにでも置いてあるだろうベンチ──その真正面には海が。なるほど、ベンチにカメラを置いて、海をバックに写真を撮ろうと。


「写角とか大分不安定になりそうだけど」


「良いんだよ、そんなん。一々気にするもんでもないっての」


 言うなり、また彼女がカメラをぶんどってきた。急いで設定を終わらせると、青い椅子の上に、カメラが置かれた。


「ちょ……タイマー、あの設定じゃ、10秒」


「だからどうしたのさ」


 腕を、引かれた。

 転ぶように、力に引かれて体勢が崩れる。けど、その先には麗奈がいた。

 抱きつくように、麗奈の方へ飛び込む。


「私は、蒼との思い出を残したいんだ──ほら、カメラ見なよ」


 彼女が指差す方向には、レンズがあった。

 温かな麗奈の腕に抱かれながら、レンズに写る自分を見つめる。

 ──なんだか、笑ってる、ような。


「はい、チーズ」


 耳元で聞こえた声に合わせて。

 パシャリ

 白いフラッシュが、夏の快晴に閃く。



 ────────────────────



『私は、お前との思い出を残したいんだ』




「お、撮れた撮れた」


 麗奈が足に力を入れ、カメラに手を伸ばして。

 ──でも、俺は麗奈の服を掴んで、離さなかった。

 と言うより、離せなかった。


「お前、何だよ急に──蒼、どした」


 麗奈のワイシャツの裾を掴み、俯いたまま。


「──俺も、だよ」


「──蒼」


「帰りたくない」


 顔を上げて、言う。


「逃げよう」


 若干、麗奈の瞳が開く。感情が揺れた時の、麗奈の反応。


「このまま電車に乗って、逃げて──ずっと、2人で──なぁ、麗奈。それでも良いんじゃないか」


 足に力を入れ、立ち上がる。麗奈もまた、俺に合わせて立ち上がった。

 吸い込まれるような彼女の瞳孔に目を合わせ、なおも言う。


「俺も、アンタとの思い出を残したいんだ」


 言う


「ずっと、いつまでも、アンタと一緒にいたかった」


 心から、絞り出すように


「だから、行こう」


 思いが、溢れ出すように


「俺と一緒に、どこまでも──」


 ──少し焼けた、ちょっとだけ茶色の手を、彼女に差し出す。


「──行こう」


 ──彼女はもう、落ち着いていた。

 俺から目を逸らし、海の方へ視線を向けて。

 左手を上げる。期待に、一瞬、胸が高鳴る。


「──このままずっと、進んでいったとして」


 ──麗奈が手を下ろした先に、俺の手は無かった。

 指が指す。その向こうは、俺たちの家とは反対側の線路。


「その先に、何がある」


「──何がって、そりゃあ」


「思い出なんて、変わらない」


 ──今度は、俺の目が、見開いた。


「私はきっと死ぬ。私には私の、そういう未来があるんだ」


 ──分かってる。分かってた、けど。

 目を逸らして、嫌な気持ちを、誤魔化した。

 そんな未来──過去も、見たくもない。忘れたい。忘れてしまいたい、大っ嫌いな、未来で、過去。


「蒼には、私が死んだ後にも、お前の未来が続く」


「──そんな、人生……俺は」


「お前の──辻村蒼の、未来なんだよ!」


 大きな声が響いた。驚きに、肩が震えた。


「私はいつか過去になる。誰かの過去にしか残らない、もういない、ただの思い出だよ」


 左の頬に、麗奈の右手が当てられる。

 愛おしくて、懐かしくて──いつの間にか流れていた涙を、指で拭ってくれた。

 自然と、俺の左手が、包むようにその手を握っていて。


「いつか、私が死んだら、お前は今みたいに泣いてくれるんだろうな。泣いて、喚いて、私を求めて──それって、すごく幸せな事なんだと思う。大切な人が、自分をどこまでも愛して、求めてくれる」


 彼女の右手が、俺の頭に回り込んだ。温かい体が、俺を包み込む。暑苦しい胸の中に嗚咽を漏らしながら、両手を伸ばし、しがみつくように、抱き返す。


「でも、思い出は過去だ。現在いまじゃない」


 幼子のように泣き散らしながら、強く強く、麗奈を抱き締めた。その間もずっと、彼女の手は、俺の頭を撫でてくれていて。


「大切なものを過去に費やしちゃ、ダメだよ」


 震える息を零しながら、なおも抱き締め、その服を掴む。


「──行かないで」


「ごめん」


「俺、アンタとずっと一緒にいたかった!笑ってたかったんだ」


「──ごめん」


「俺──俺、」


「蒼」


 両の頬に、手を当てられた。そのまま体を離され、麗奈の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。


「愛してる」


 ──息が、震えた。


「あぁ」


 胸がどくどくと、鳴り響いていた。うるさい。感情が、溢れん何かが、止まらない。

 弱々しい声が、喉の奥から出てくる。感情が喚いてる。この想いを、吐き出したいのだと。叫びたいと、心が。

 言ってやらないといけない言葉が、まだ、残ってるから。


「俺も」


 少し後ろに歩き、真っ直ぐに麗奈を見つめる。日向と日陰の境目が俺たちを分け、俺たちは見つめ合う。

 燦々と照る太陽が眩しい。目が少し、細まった──笑おう、今は。


「俺も──俺も!」


 白光が、世界を照らす。

 叫び声が、空に轟く。

 聞け、聞いてくれ、俺の叫びを、この思いを。


「俺も、お前を──」


 ──愛してる


 世界が瓦解した時、麗奈は笑ってたような、泣いてたような。

 そんなような気が、していた。

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