カミサマ

 コンクリートを駆ける。足音は強く、されど儚く、夜の闇へと溶けていく。

 粘りつくような暑さが体を覆う。鼻から吸う空気は生温いし、草と潮の混ざった嫌な匂いもする。昔から味わってきた、夏の夜の世界。

 耳に響くセミの声は、今もうるさい。昼間から、ずっと。


 ──あの日から、ずっと。



 ────────────────────



 街灯をいくつか通り過ぎ、坂を下る。

 毎日目の前を通ってきた、見慣れた鳥居の前で立ち止まった。膝に手をつき、息を整え。

 視線を、鳥居の向こうへと。階段のド真ん中に座る、女みたいな少年と──女みたいな少年みたいな、「何か」と、目が合って。


「──カミ、サマ!」


 声と共に、汗が弾けた。瞳は、縋るような色に光っていたと思う。

 カミサマのところへ駆け寄り、その細く頼りない肩を揺すった。彼の緑の瞳の向こう、思う心は、分からない。


「あれは、カミサマがやったのか。俺と、俺とあいつを──麗奈を!」


 俺は、必死だった。長い間諦め、長い間沈み込んで、ゆっくり広がってきた心の空虚な穴を、埋める手段があるかもしれないと。思ってしまったから、思ってしまったなら──俺は、己の全霊を以て、彼女を取り戻すしか無いから。


「教えてくれ──俺はあいつと、もう一度──俺はあいつに、今度こそ──っ」


 ──真っ白な指が、俺の唇に触れてきた。

 まるで、俺の口を塞ぐかのように。驚きに喉を詰まらせる。

 彼は微笑みながら、俺に向けて告げた。


「暑くて死んじゃいそうなんだ。家、連れてってよ」



 ────────────────────



 家に着くとすぐに俺の部屋へ向かい、ベッドの上、2人並んで座った。

 部屋の電気はつけていない。人工の光より月明かりの方が、好きだ。

「暑いから」。言うカミサマに出した1杯の麦茶を、彼は喉を鳴らして飲んでいく。この光景だけ見ていると、彼が本当に超常的な力を持つカミサマなのか、怪しいようにも思えてくるが。


「ふぅ」


 1つ息を吐くと、カミサマは立ち上がり、コップを俺の机に置いた。

 そのまま、机の前にある回転イスに座り込む。畳の上なのにイスを使ってるから、机の周りの畳はボロボロ。

 こちらに向き直り、机に頬杖をつく。何かを考えるようにしばらく視線を巡らせると、ふとした一瞬、俺に視線を合わせ、だが、すぐにその視線も外した。


「さて」


 緊張が、全身に走った。心臓がキュッと、締まるような。

 呼吸が少し、荒れていた。また彼女と会えるかもしれない。その希望は、強く胸を高鳴らせる。


「君の望みは、なんだい?」


「──俺は、俺は──あいつと、麗奈ともう一度、夏を過ごし」


「無理だ」


 間髪容れず、告げられた。

 言葉を、ゆっくりと咀嚼する。「無理だ」。その言葉の告げるところの意味を理解して。


「──なんで」


 ふと、呟いていた。

 なんで

 お前が、夢を見せたのだろう。

 お前以外に、誰がいる。

 おちょくっているのか?会いたい会いたいと、喚き続ける俺を、笑って。

 ──心のどこかの糸が切れ、絶望と激情が、体を突き動かした。


「なんで!」


 立ち上がり、カミサマの胸倉を掴む。

 俺から目を逸らす彼の横顔は、夕方の病室、俺を怒鳴りつけた母親の顔と、同じだった。

 打ちのめす癖に──顔も見ないで、なぜ、そうも俺を突き放す。


「なんで!!」


 襟を掴む腕に力を入れ、酷く軽いカミサマの体を引き上げる。

 鼻がくっつきそうなほど目の前に、彼の顔はあった。綺麗だな。柄にも無く思ってしまうほどの、透き通る肌。そんな肌を、醜く引き裂いてやりたい。思ってしまうほど、激情は強く、俺の中に脈を打つ。


「カミサマなんだろ!?あの奇跡を起こしたのは、あんたのはずだ!やってみせろよ!やれんなら、やってくれよ!俺は……俺は、あいつに……」


 ──言葉と共に、俺の体から力が抜けていく。

 カミサマを離すと、彼は再び椅子に座り込んだ。蟻地獄のような絶望に。駄々っ子のような願望に。足からも力が抜け、カミサマの前に懇願するかのように、へたり込む。


「言ってやらないと、いけない事があるんだ……言ってもらわないと、いけない事があるんだ……なぁ、頼むよ……あいつが、麗奈がいないと、俺……なぁ!」


 ──カミサマは、目を逸らしたままだった。


 届かなかった。悟る。


 もう──麗奈は俺のところに、戻ってはこない。


 分かっていたはずだ。分かっていたはずだろう、辻村蒼。

 何も変わりはしない。どうしようも無い、袋小路だった。いつもと同じの、彼女のいない、空虚な日常。

 ただ戻るだけなのに。それなのに。


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁ──!!」


 ──心はなおも、受け入れてはくれない。

 きっと本当は、最初から受け入れてなんかいなかった。でも、戻って来ないと分かっている彼女に、みっともなく縋りつくなんて、誰も喜ばないし、何も起こらないし。

 だから、諦めた振りをして。前を向いた振りをして。受け入れた振りをして。

 彼女を求めているのに。ずっと後ろを向いているのに。変わらない事実を、いつまでだって拒絶していたのに。

 この、醜く慟哭する姿こそが──本当の、辻村蒼だった。



 ────────────────────



「君の言う、『奇跡』」


 袖を涙で濡らし、何十分経ったろう。

 その声は、急に上から降ってきた。


「あれを起こしたのは、間違いなく僕だ」


 ──今更、何を言っているのか。

「無理だ」。言ったのは、お前なのに。まだ俺を、叩き落とそうとするのか。


「君を、ずっとお姉さんと一緒にいさせる訳にはいかない。カミサマとしても、1人の意思としても」


 椅子から下りるとしゃがみ込み、俺の濡れた頬に手を添える。息を荒らげたまま、反射的にその手を弾いた。


「できるのなら、俺を──ずっと、麗奈と一緒に──」


 俯き、言う。カミサマのルールとか、色々、こいつにもあるのかもしれないけど。そんな事は全部、どうでも良かった。ただ、麗奈と一緒にいられれば、それで。

 カミサマが、無言のままに立ち上がった。

 差し伸べた手を弾かれ、情けない懇願と弱音を、目の前で吐かれ。

 見限られても、仕方が無い──己への嘲笑が浮かびそうになる。けど、諦めきれない俺は、その嘲りさえ、噛み殺して否定した。愚かで醜い、ささやかな抵抗。


「──君が生きている世界は、『今』だ」


 また、カミサマが何かを、言っている。


「思い出の中で、新しい思い出は生まれない。君が生きようとしている世界は、ただのぬるま湯に過ぎない」


「──そんな事は、どうだって──っ」


 顔を上げ、なおも彼に噛み付く。そんな俺に、カミサマはしゃがみこんで、1枚の写真を差し出した。

 壁から外したそれは──広がる海をバックに、俺と麗奈の2人、しゃがみながら撮った、俺が中3の時の写真。学校をサボって遠く、どこかの駅で撮った、一夏の思い出。


「空虚で歪なそれは、君の胸の内にある、温かで穏やかな『思い出』とは似て非なる世界だ。君は今、この写真を、両の手で破り捨てようとしているんだよ──分かるかい?」


 カミサマが、写真を俺の両手に収める。

 心なしか、写真が温かくて──麗奈と過ごした、その1日の思い出が、俺の心を穏やかにしていく。


「1度だけだ」


 ピン、と。カミサマは、その人差し指を顔の前に掲げた。


「あと、1度だけ、『奇跡』は起きる」


 ──目を、見開いた。

 縋るように、カミサマの肩を掴む。


「じゃあ、俺は──麗奈と!」


「会わせてあげるよ──1回だけ、ね」


 カミサマは立ち上がり、部屋の出口へ向かう。カミサマの言葉に、呆然とそこにいる事しかできない。彼は思い出したように振り返ると、微笑みながら、一言告げた。


「──良い夢を」


 そのままカミサマの足音は消え去り、また、神社へと戻っていった。

 ──俺はただ、写真を胸に泣く事しか、できずに。


 夏の夜は、更けていく。



 ────────────────────



 ──どれだけ、涙を流したろう。流す涙は枯れ果て、そのままふらりと、立ち上がった。

 無数の写真が貼ってある壁の前に立つと、全て──麗奈との写真以外も全て、1枚ずつ、手に取っていく。

 体育祭の時、友達皆で撮った写真。遊園地に行った時、家族皆で撮った写真。カメラのイベントに行った時、同業の人と2人で撮った写真。

 どの写真の中でも、皆──その顔には、笑みを浮かべていた。楽しそうな。本当に、楽しそうな。


 だけど


 麗奈が死んでから2年。俺の映った写真は、たったの1枚も増えてはいなかった。

「写真映りが悪いから」とか何とか、色んな言い訳をしてきたけど、だけど。

 多分きっと、本当の理由は、こんな風に笑う事ができる、自信が無かったから。

 ──手の中の写真を、壁に貼りつけて。満面の笑みの俺と麗奈が、真正面から俺を見つめる。

 写真の向こうから、辻村蒼が挑発してきてるような気がした。「俺は今、とても楽しい。お前はどうだ?」。そんな風に。


 ──君が生きている世界は、『今』だ


 聞こえる声に深呼吸をして、ベッドの上へと転がり込む。

 言ってやらないといけない言葉が。

 言ってもらわないといけない言葉が。

 交わしていない、俺たちの想いが。

 まだ、残っていた。

 言わないと、伝えないと、交わさないと。いつになっても笑えない。そんな気がする。


 ──カミサマの、魔法だろうか。


 眠りに就くまでに、そう長い時間は、かからなかった。

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