思い出「麗奈」

 俺は、2歳上の姉を「麗奈」と名で呼び、いつも一緒に過ごしていた。

 部屋は分けられてるけどお互いの部屋に入り浸るなんて日常茶飯事だし、時には一緒の部屋で寝ていたりもした。高校まで全部学校も一緒だし、登下校は毎日2人で。勉強するにしたって、ゲームするにしたって、いっつも麗奈と2人で。

 シスコンとか、ブラコンとか。傍から見れば、共依存にさえ見られていたかもしれない。事実、親に関係を危惧されていた面も、今にして思えばあったような気がする。

 だが、俺と麗奈の関係性は、そう言う類の一言で表せるものでは無かった。ただの姉じゃないし、かと言って恋人でも無いし、親友と言うのも違うように思える。

 どうしても一言で言うなら、1番しっくり来るのは、「半身」だろうか。

 崩れる事の無い確かな信頼と、消える事の無い確かな親愛。

 お互いに抱く感情は、そう言う、温かで穏やかなもので。

 彼女との日々は、楽しかった。かけがえの無い日々で、愛おしい思い出。


 だけど


 夕焼けの病室、夏も目の前の、あの日。

 世界に広がる蒼の予感に、胸を高鳴らせていた6月。

 辻村麗奈は──「さようなら」も言わずに、俺の元を去った。


 麗奈は、昔から心臓が弱かった。

 入院と退院を何度も繰り返し、退院した時は、麗奈の好きな晩飯を食卓で囲む。それが、辻村家の恒例。

 小学校の頃とかは、麗奈の入院を楽しみにしていたようにも思う。入院なんていつもの事だから、麗奈が死んでしまうとかは思いもしなかったし、俺と麗奈は好みが似ていたから、退院の日の夕飯は俺の好きなものも多く並んだ。

 でも、中学生になって──麗奈の入退院の頻度が高くなると、楽しみは憂鬱に変わっていった。

「麗奈が入院する事になった」。親の口から放たれる聞き慣れた言葉は、慣れているはずなのに、聞けば聞くほど緊張で鼓動を速める。


 そして、ある日。

 忘れもしない。高校生になって、初めての6月。


 その日は、梅雨前線の雨が降っていた。

 いつも通り、カッパを着て自転車で家に帰ると、父親の車が駐車場にあった。

 単身赴任でいないはずなのに──何だか嫌な予感がしたけど、それを振り払うように、明るい声で「ただいま」と。

 自室では無く、リビングに向かう。テレビもつけず、テーブルに向かい合うように座っている、父と母。俺の隣の麗奈の席は、空いていた。


「座りなさい」


 バッグも置いてないのに、父に言われた。

 俺や麗奈が悪い事をして、叱られる時と同じパターン。いつもは、「嫌だなー」って、「だるいなー」って思いながら、席に座るけど。

 その時だけは、「どうか、怒ってくれ」と、強く願っていた。

 だけど父親は、いつになっても怒鳴り声を上げず。

 しばらくの静寂の後、思い切ったようにして口を開き、言う。


「蒼、落ち着いて聞きなさい。麗奈が──」


 ──その日、俺は1日中、雨音と共に泣いていた。



 ────────────────────



 夕暮れ時の病室、酸素マスクを曇らせ、苦しそうにこちらへ手を伸ばす麗奈。俺も、胸が苦しい。彼女のそんな姿に、冷静さを保つだけの余裕は、俺には無かった。

 それは確実に、2年前、麗奈が死んだ、あの日の景色だった。

 理解が、追いつかない。驚きで、心臓の音が酷くうるさい。

 麗奈の伸ばした手を、無意識に握った。混乱していても、だけど、彼女を救いたいと、想いだけは。

 今、この世界の答えが何であろうと、俺には関係ない。目の前に苦しんでいる麗奈がいて、俺に手を伸ばしている。それだけが、俺の動く理由だった。


「麗奈……麗奈!」


「……あ……し……しん」


 麗奈が、何かを呟く。口元に耳を当て、声を拾う。


「……蒼……写真」


 聞こえる声に、ベッドの横の棚の上にあるカメラに、視線を向ける。麗奈の手は握ったまま、カメラに右手を伸ばし、電源を入れる。


「麗奈、お前……お前、」


 生きろよ。

 喉が詰まって、その言葉は声にならなかった。

 ──その言葉を、声にする事ができなかった。

 彼女がこれからどうなるかを、俺は知っているから。

 涙を誤魔化すように──駄々っ子のように首を振り、麗奈の横に顔を近づける。

 カメラを、こちらに向ける。レンズに反射した麗奈は、右手で顔の前にピースを作り、苦悶に歪んだ笑顔を浮かべていた。

 右手、カメラのボタンを押す人差し指は、震えて力が入らない。

 これを撮ったら、これを撮ってしまったら、彼女は戻って来ない。もう、俺と学校をサボる事も無いし、俺にビンタをして来る事も無いし、俺に、笑いかけてくる事も無いと、知っていたから。


 だけど


 左手、俺の手を握る彼女の力が、少し強くなったのを感じて。

 悟る。麗奈は今、最後に輝いているのだと。

 その輝きを、手放さないように──手放したくないと、叶わぬ願いを思いながら。

 右手の指の震えは無くなり、シャッター音が病室に響いた。



 ────────────────────



 写真を撮り、カメラを棚に戻すと、再び麗奈に向き合う。

 麗奈の瞳は焦点が合わなくなっていて。だけど、こちらを向いていると言う事だけは、理解できた。


「麗奈……あのさ」


「……ん」


 返す声が、酷く弱々しかった。一瞬喉が詰まり、深呼吸をする。


「今まで、照れ臭くてこう言う事言えて無かったんだ──俺、俺さ」


「──」


「俺、お前の事、すっげぇ──」


「──」


「──麗奈?」


「──」


「──麗奈」


「──」


「──蒼」


「麗奈──麗奈!」


「──」


「──蒼」


「──麗奈っ!!」


「蒼っ!!」


「っ!」


 怒鳴り声に、肩が跳ねる。

 心電図を示す機械が警告音を鳴らし、周囲にいる医者や看護師が慌ただしくなった。

 麗奈を呼ぶ、その声のまま、荒くなった息を整えもせずに怒鳴り声の方へ向く。


 怒鳴り声を上げたのは、母親だった。

 俺から目を背け、歯を食いしばりながら涙を流している、母親。今まで俺たちに対して怒鳴った事なんて無い、優しいはずの母親。

 ──どうしてだろう。

 俺も麗奈も、母が大好きだった。何でも相談してたし、いつも笑い合って、過ごして。

 だけど、それなのに。


「──あんたが」


 今ばかりは、この母親が。


「あんたが、あんたのせいで」


 ──酷く、憎らしい。


「あんたが、麗奈をこんな体で産まなきゃ」


 胸倉に、掴みかかる。


「どれだけ麗奈が苦しんできた!どれだけ麗奈は生きたがった!」


 揺さぶる。母の視線は、逸れたまま。


「こんなに、こんなに苦しいのに──苦しがってたのに──それなら、いっそ」


 感情が、ぐちゃぐちゃだった。何が何だか、分からなくて。


「いっそ、俺たちの事なんて、生まなき」


「蒼!!」


「っ!」


 鋭く太い声が、横から飛んでくる。

 息を切らしたまま、顔を右に向ける。

 目を充血させた父親が、肩を震わせながら、俯いていた。

 ふと、麗奈の方を見る。俺の半身は、青白い顔のまま、瞼を閉じてそこに眠っている。

 そう。まるで、眠っているような。


「──なあ麗奈、聞いてくれよ。父さんと母さんがさぁ……俺、すげぇ、キツくて……なあ、麗奈」


 医者と看護師を押しのけ、麗奈の元へ駆け寄る。話を聞いて欲しかった。「あぁ、それはキツいね」とか、「あんた、それは蒼が悪いでしょ」とか、何か、俺に何かを言って欲しかった。この感情を、共有したかった。

 だけど彼女は、目を瞑ったまま、何も返してはくれない。

 行き場の無い感情が、どうしようも無い悲嘆と怒りが、世界に否定されたような気がして。


「──クソッ!」


 ベッドを囲むように作られた、カーテンをつける鉄パイプを、蹴りつけて。

 病室の扉を開き、駆けた。

 逃げるように、どこまでも、駆けた──。



 ────────────────────



 目を覚ますと、外は真っ暗になっていた。

 ベッドから起き上がり、月明かりに照らされた壁時計に視線を向ける。短い針は、11を指していた。寝すぎた──眠りに落ちてから、大体6時間。

 ベッドから立ち上がり、朦朧としている頭をハッキリとさせる。さっきのは──夢だったか。ふと無意識に、壁に貼った写真へと、視線を向ける。あの日の病室、2人の写真を、また見たくなって。


「──ん?」


 一瞬、違和感を覚えた。言語化し難いが、確かに引っかかる、違和感。壁の前に近づき、1枚1枚の写真を見ていき──その違和感の正体には、すぐに気づいた。


「これは……」


 壁に貼りつけられた2枚の写真を手に、視線を落とす。

 月明かりに光るそれは、夕暮れの病室、俺と麗奈のツーショット。弱々しい笑みと、弱々しいピース。泣きそうな俺。

 視線を更に横に向け、もう1枚の写真を、手に。

 写真の端に血のついたそれも、また──俺と麗奈の、病室でのツーショットで。

 同じ写真──いや、が2枚、そこにあった。


「──」


 有り得ない。いつも見ている。急に、こんなの。

 有り得る、辻褄の合う、可能性があるとするなら。

 ──もし、彼が本当に、カミサマだったら。

 もし、俺と麗奈を──写真の向こうとこちら側を、繋げられるなら。

 足が、動いた。

 カミサマ笑の──カミサマのところに、向かわなければ。

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