神殿 2
霊安室はサーシャが思っていたよりもずいぶんと狭かった。
街の診療院なのだから、当然と言えば当然なのだが、窓のない角部屋で、ベッドが一つ。遺体の枕元に花が飾られているほかは、何もない。
ほんの少し香りがするのは、遺体の腐臭をごまかすためのものだろう。
見ない方が良いとグランドールが言うだけあって、かなりひどい状態だった。
頭蓋骨を折ったのか、かなり頭部がひしゃげている。足も変な方角に折れ曲がっていた。
「ここについた時は、既に息絶えておりました」
グランドールが静かに口を開く。
さすがに想像を越えた状態の遺体に、サーシャは体が震えるのを感じた。
「大丈夫か? アルカイド君」
レオンの大きな手が、サーシャの肩にのせられる。
「遺体を見慣れている私でさえ、この遺体はひどい。これは親衛隊の仕事で君の仕事ではない。無理をするな」
「いえ。お気遣いなく。大丈夫です」
サーシャは首を振り、大きく息を吸う。
眼鏡を外し、口や鼻を調べる。
及び腰のせいなのか、魔素は発見できない。
「ひょっとして吐血をしましたか?」
「ええと。はい。死後処理をいたしました」
サーシャの問いにグランドールが答える。
「では、魔術薬剤の魔素が分からなくなってもおかしくないですね……」
サーシャはため息をつく。
もともと魔術薬剤は飲んでしまうものなので、表層に魔素が残ることは珍しい。
生きていれば、体全体に作用するため、口や鼻から呼吸で魔素がこぼれることがあるけれど、死んでしまったら、体内にとどまるだけだ。
死後の吐血などで効果が表れた時の魔素が体内から出てしまえば、もうわからない。
胃の腑を腑分けでもすれば違うかもしれないが。
この場合、死後処理をグランドールがするのは当たり前のことだ。
おそらくここに運ばれたときは、もっとひどい状態だったに違いない。
「所持品は?」
「こちらです」
レオンに促され、ベッドのわきに置かれていた木箱をグランドールは開いた。
中に入っていたのは、貨幣の入った袋、半分ほど液体の入った瓶。あとは使い古したハンカチが一枚。
特に目を引くものはない。
「……あえて言うなら、この瓶か」
レオンは瓶に手を伸ばす。
御者が飲み物を持っているのは不思議でも何でもない。
夜会などの場合は、控室が用意されているけれど、そうでないちょっとした所要の場合、馬車で待つことの多い御者は夏場などは飲み物を用意する。
それほど暑い時期ではない今の時期だが、絶対に持たないとも言えない。
レオンはためらいなく瓶のふたを開けた。
ツンとする薬草の香り。
「これは……ラクライの香りの気がする」
レオンが顔をしかめる。
「どう思う?」
レオンから瓶を渡されたサーシャは、中に魔素がないのを確認する。
「確かにそんな気もしますが、どう思われます?」
サーシャは、香りをかいだものの確信が持てず、グランドールに渡す。
薬草に関しては、サーシャよりグランドールの方が当然詳しい。
ラクライは、強いめまいを起こす作用があったはずだ。
肌荒れに効果のあるドミランとよく似た葉で、香りは少しだけラクライのが強い。
「間違いありません。ラクライの香りがします」
ドミランとラクライについては、サーシャも薬を扱う常識として学んだ。
それほど、民間では間違いの多い薬草である。
「ということは、ラクライを摂取したことによるめまいで、馬車の操縦を誤ったとみるべきでしょう」
グランドールは険しい顔をする。
「これのせいか?」
「それほど強いものではありませんが」
ふたを閉じながら、グランドールはレオンに答える。
「年に数回、間違えてこちらに来る方がいらっしゃいます。敏感な方なら、香りで違うとわかるものですが、こちらの方は気づかなかったのでしょう」
「これは、この男が自分で煎じたものでしょうか?」
サーシャは首をかしげる。
「……これだけでは何もわからない。家族が来たら確認しよう」
「もしこれが、本人が煎じたものでないのであれば、故意か、それともただの間違いなのかによって、いろいろ変わってきますね」
サーシャはため息をつく。
「先入観はまずいが、十中八九、故意だろうな」
レオンはそういってから、瓶を遺品入れに置いて、霊安室を出る。
さすがに遺体の前で話すのは、レオンも落ち着かないのだろう。
「故意にしては、飲むか飲まないかわからない、不確実な方法だと思いますが」
「ターゲットは、この男ではない。あくまでもブリックス伯爵だ」
サーシャの疑念に、レオンは答える。
「おそらく訪問先でブリックス伯爵は魔術薬剤を飲まされた。眠ってから馬車に乗せられたのか、それとも自力で乗ったのかは不明だが。そのまま無事に帰ったとしても、当分彼が目覚めることはないのだから、必ずしも事故にあう必要はない。事故で死んでくれれば都合が良いと、犯人は考えたのかもしれない」
レオンは大きく息を吐いた。
「なんにせよ、嫌な話だ」
「本当に」
事件を知る人間にたどり着いたと思うと、その人間が事故にあう。
悪いのは黒幕であるのに、真相を追うこちらも罪の意識を感じてしまう。
「アルカイド君も不快だろう。巻き込んですまない」
レオンが頭を下げる。
「いいえ。私が望んだことですから」
サーシャは首を振る。
レオンに依頼されたから、ハダルに命じられたから、ここにいるのではない。
もはや、サーシャ自身が、この謎に取りつかれている。
「ここで塔に返されても困ります」
サーシャがそういうと。
「頼りにしている。問題は、手放せなくなりそうで怖いのだがね」
レオンはわずかに口角を上げて、微笑した。
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