念糸 3

 サーシャは頭が真っ白だった。

 馬にまたがる形で腰かけたのなら、多少は安心感があったのかもしれない。

 だが、サーシャはお姫さまのように横すわりに乗せられた。そして体勢を変える余裕もないまま、レオンが馬を走らせ始めたので、レオンの身体にしがみつくしかなかった。羞恥心も遠慮も吹っ飛ばすしかなく、相手がレオンでは悪態をつくこともできない。

 レオンはサーシャを抱きしめるように支えてくれてはいたが、馬はほぼ全力疾走である。視界が高いだけでも慣れないのに、加速感まで加わると、さすがのサーシャでも怖い。

 相手がレオンでなければ、サーシャはぶん殴ってでも馬を止め、自分は歩いて宮廷に戻ると言い放っただろう。

 レオンはそんなサーシャの気持ちなど鑑みることなく、馬を走らせた。

 もともと、歩くことに苦ではない距離だ。あっという間の出来事と言えばその通りなのだが、サーシャは恐怖で血の気が引いてしまった。到着して、レオンの助けを借りて馬を降りた後、思わず地面に座り込む。

 腰が抜けたのか、体に力が入らない。

「大丈夫か? アルカイド君」

「ええと。たぶん平気です。私には構わず、お先にどうぞ、殿下」

 サーシャは苦笑いする。

 そもそも、原因を作ったのはレオンだ。

 だが、特に問題のある行動でもないし、サーシャの立場から文句を言うことはできない。けれど、よく考えれば、急ぐのはレオンだけでも良かった。

 もちろん発見者はサーシャで、無関係ではないが、事情を知っているのだから、後から合流という形でもなんとかなったに違いない。そもそも、ハダルが動いているのだ。サーシャが積極的に動く必要はない。

「すまなかった。怖いもの知らずのアルカイド君が、それほど怖がるとは思っていなかった」

 宮廷の兵に馬を預けると、レオンはサーシャに頭を下げた。

「馬に乗るのは初めてでしたので」

 普段のサーシャは無茶をしても、無謀に見えても、考えなければいけないことがたくさんあって、恐怖を感じている暇がない。今回のように、打開する術がなく、ただ耐えなければならないとなると、気の紛らわしようがない。

「悪かった」

 言いながらレオンはサーシャの手を取る。

「立てるか?」

「すみません。腰が抜けて」

 手を貸してもらっても立てそうもない──と、サーシャは首を振った。

 せっかく急いできたのだ。こんなところで時間をつぶしていてはもったいないので、レオンに先に行ってほしいと言外に告げる。

「そうか」

 レオンが頷いたかと思うと、サーシャの身体を抱き上げた。

「えっ?」

 あまりのことにサーシャは表情の変わらないレオンの顔をまじまじと見る。

 端正な顔は、相変らず眉一つ動いていない。しかし、これは、お姫さま抱っこというやつだ。

 たいていのことでは驚かないサーシャだが、馬に乗ったあたりから、レオンとの距離感がおかしくなっている。

 そもそもサーシャは女性として扱われることはおろか、人に親切にされることすら慣れていないため、どう対応するのが正解なのかわからない。

 血の気が引いたり、血の流れが激しくなったり、体も感情も追い付かなくなっている。

「殿下、少し休めば大丈夫ですから」

「歩けないなら、このようなところにいてはいけない」

「それは、そうですけれど」

 確かに宮廷の入口で座り込んでいたら、邪魔というか迷惑だ。

 ただ、レオンの立場なら、人を呼んで運ばせることだってできるはずだ。それにけがをしているわけではないから、少し休めば動けるようになるだろう。

 レオンがサーシャを抱き上げて連れていく必要はない。そもそもレオンはサーシャの仕えるべき皇族なのだ。あまりにも恐れ多い。

 しかも、場合によってはスキャンダルになりかねない。

「殿下、さすがにこれはまずいと思います……一応、私も女でございますし」

「……知っているが?」

 レオンはサーシャが何に動揺しているのか、わからないようだ。

 動けないサーシャを抱き上げ、休める場所へ連れていく行為は、人助けであって、それ以上ではない。レオンの行為はただの親切心だ。

 相手が誰であっても、そうする──だから、この状況が他人から見たらどう見えるかということに、思考が回っていないのだろう。何かにつけて、いろいろなことが見えているレオンからは、想像もつかないけれど。

──私が気にしすぎているだけなのかしら。

 あまりに無表情のレオンの顔を見ているうちに、サーシャの心は落ち着いてきた。

 この時間にいるのは、宮廷に住み込みの使用人と、居残りの官吏だけ。たとえ目撃されたとしても、皇族、レオンの噂を面白がって口にはしないだろう。

 そもそも、レオンとサーシャでは恋愛関係だと思われない可能性が高い。

 サーシャは女である前に、宮廷魔術師だ。

 ドレスを着ているわけでもない。貴族子女には違いないが、そんな風には見えないだろう。

 万が一、恋愛関係だと誤解されても、レオンに婚約者はいないのだから、浮名の一つや二つ、どうということはないともいえる。

 サーシャとしても、もともと塔に引きこもりぎみの宮廷魔術師で、社交場に出る時は、ただの警備員でしかない。瞬間風速的に噂になったとしても、ほぼ害はないだろう。

 要は、サーシャ自身が勘違いしなければ、何事もなく過ぎ去るものなのかもしれない。

「レオン殿下」

 宮殿に入り、廊下の辻を曲がったところで、聞きなれた声がした。

 リズモンド・ガナックだ。

 レオンの到着を聞いて迎えに来たのだろう。

「え? サーシャ?」

 リズモンドはレオンに抱かれたサーシャを見て驚いたようだった。

「それで、ガナック君。ルーカスはどこに行けば会えるかね?」

「ご案内します」

 リズモンドは何か問たげだったが、今はそれどころではないと判断したのだろう。

「あの、殿下」

 そろそろおろしてほしいとサーシャは思う。噂になる、ならないは別として、仕事仲間にこんな姿を見られるのは、恥ずかしい。

 しかし、レオンは聞こえていないのか、サーシャを抱いたまま歩き出した。


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