念糸 2
サーシャは皇太子の部屋を出ると、扉に魔術で鍵をかけた。
現場を保存するためである。
緊急を要する危険な術具であれば、すぐにでも撤去するところだが、そこまでではないという判断だ。
皇太子の部屋に置く『魔道具』は、宮廷魔術師に報告されなければならない。ただ、念糸を使ったものの場合、『おまじない』程度の効果しかないのが常で、さすがに報告の対象にならないと、判断される可能性も高そうだ。
ただ、『魔素』が確認できるということは、それなりに強い魔術が施されている証拠で、どんな術のものにせよ、宮廷魔術師として無視していいことではない。
サーシャは塔に戻ると、首席宮廷魔術師のルーカス・ハダルは帰宅しようとしていた。
「ハダルさま」
ここで、ハダルに報告できないと、手続きが煩雑になる。サーシャは慌てて、ハダルを呼び止めた。
「サーシャ?」
ハダルはサーシャの表情を見て、手にしていたカバンを机に置く。
「皇太子殿下の部屋に見慣れない魔素を発見いたしました」
前置きをせず、サーシャは単刀直入に話し始める。
合理主義のハダルは、こういう場合、不必要なことを嫌う。
サーシャ自身が警戒しすぎているだけの可能性もあるが、『怪しきものを見かけたら、看過しない』という理念に沿った行動だ。それで問題がなければ、問題を見過ごすよりずっといいと、サーシャは考えている。
「念糸を使用した花瓶敷です。術そのものはそれほど強力ではないかもしれませんが、申請はなかったように記憶しておりましたので、とりあえず、部屋に鍵をかけてまいりましたが、いかがいたしましょうか?」
「すぐに確認しよう」
ハダルは、同じく帰ろうとしていた、アーネスト・ファルダを手招きした。
「帰り際にすまないが、皇太子に至急の話があると、伝えてくれ」
「承知いたしました──今日は残業ですかね?」
「おそらくな」
ハダルの言葉に、アーネストは軽く肩をすくめ、そのまま部屋を出ていく。
アーネストは、年はサーシャより上だが同期で、人の良い男だ。既に家庭人で、家には生まれたばかりの息子がいて、定時に帰ることに命を懸けている。
サーシャは少しだけ、申し訳なく思った。
「とりあえず、現物を見よう。サーシャの知らない魔術となると、厄介そうだが」
「魔素もそうですが、念糸のまじないで、魔素がみつかるほどの術効果というものを見たのは、初めてです。術効果はそれほど強いものではなさそうですが、何分、皇太子殿下の寝室にあったものですから」
「わかっている。逆に、サーシャの杞憂であれば、ありがたいのだが」
ハダルは苦笑いする──そして、宮廷魔術師全員の残業が確定することになった。
件の花瓶敷は、どうやらサーシャの思った通り、黒魔術の文様が念糸で編まれているらしかった。
もっとも、複数の術効果がからみあっていて、ハダル自身も効果について判別はすぐにできないものであり、調査が必要らしい。
黒魔術は基本的に『禁忌』だ。研究はしていても、実際に目にすることはめったにない。
花瓶敷を見たハダルは、サーシャにその足で、朱雀離宮の親衛隊を呼ぶように命じた。
どのような経緯でそこに置かれたにせよ、放置はできないものだ。
朱雀離宮についたころには、既に夜はだいぶ更けていた。
「サーシャ・アルカイドです。ハダルさまの命で、至急レオン殿下にお会いしたいのですが」
入口に立つ門兵に声をかける。
幸いと言っていいのか、面識があったこともあり、最初に来た時のような、不審者を見るような目では見られなかった。
ただ、急なことで、しかも今回は書状も持っていないから、かなり待たされることを覚悟していたサーシャだが、拍子抜けするくらい簡単にレオンの執務室に通された。
「やあ、アルカイド君」
遅い時間の訪れにもかかわらず、レオンはまだ仕事中だったようだ。
魔道灯の灯された机の上には、たくさんの資料がのせられている。
「お久しぶりです、レオン殿下」
サーシャは丁寧に頭を下げた。
「挨拶はいい。急ぎの用件なのだろう?」
レオンはわずかに首を振る。
ルーカス・ハダルは合理主義で、しかも常識人だ。急ぎでなければ、書状の一つも書いただろうし、そもそもこんな時間に部下をよこさないことは、レオンもよくわかっている。
「皇太子殿下の部屋に無申請で、術効果のある品を発見いたしました」
サーシャは、単刀直入に説明を始める。
「入手経路および、どのような術が施されているものかは、わかっておりません。術の『力』についてはそれほど大きなものではありませんが、黒魔術を使用している可能性が高いです」
「黒魔術?」
レオンがわずかに顔をしかめた。
「殿下ご自身がお持ち込みになられた可能性もございますが、術効果のあるものについては、宮廷魔術師が一度目を通す決まり。いずれにせよ、黒魔術の可能性が高い以上、親衛隊のお力が必要になるとハダルさまはおっしゃっておられます」
「わかった」
レオンは机に置かれたベルを鳴らす。
「お呼びでございますか? 殿下」
隣にいたのだろう。扉が開いて、マーダンが現れた。
相変らず、可も不可もないような外見だが、この男がとても優秀で、レオンの大事な腹心であることをサーシャは知っている。
「宮殿に行ってくる。馬の用意を。アルカイド君は、ここまで馬車かね?」
「いえ、私は歩いてまいりました」
宮殿と朱雀離宮は、歩けない距離ではない。もちろん、馬の方が早いが、サーシャが塔の馬車を使用しようと思うと、煩雑な手続きが必要だ。正直、急な用事で使うのは面倒すぎる。
「馬車を用意いたしましょうか?」
マーダンがレオンの顔をうかがう。
サーシャとともに行くなら、馬車にした方がよいのでは? という意味だ。
「いや。馬車の用意は時間がかかる。馬で行こう」
レオンは答えてから、サーシャの顔を見る。
「アルカイド君は馬には乗れるかね?」
「ええと、無理です。私は歩きますので、お構いなく」
サーシャは慌てて首を振る。
「ふむ。では、私が乗せていこう」
「へ?」
「それではご準備いたします」
言われている意味が分からないサーシャを全く気にせず、マーダンが出ていった。
レオンは書類を金庫にしまい、壁際にかけてあった、コートを羽織る。
「行こうか、アルカイド君」
「ええと、はい」
レオンに促され、サーシャは後に続く。
外に出ると、馬具をつけた馬がすでに用意されていた。
「失礼する」
そう断ると、レオンはサーシャの体を抱き上げ、馬へと乗せる。
「で、殿下?」
「マーダン、後は頼む」
言いながら、ひらりとレオンは馬に乗る。当然、距離が近い。レオンはなんてこともないように、サーシャの身体を抱くように手を回した。
こんな風に男性と体が触れる状態になることも、馬に乗ることも初めてのサーシャは、心拍が乱れ、パニックになりそうだ。抗議しようにも、相手は皇族である。
「承知いたしました」
サーシャが助けを求めるように、マーダンの方を見ると、マーダンは目を伏せ、ゆっくりと首を振る。
諦めろと言っているのだ。
レオンに悪意があるわけではない。むしろサーシャとともに宮殿に向かう、一番早くて、合理的な方法を取っているにすぎないのだ。
「口を開くと舌を噛む。気を付けて」
レオンはそういうと、馬を、全速で走らせ始めた。
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