玉砕スリージャンプ
いざ決戦だ。
泣いても笑ってもこれが最後、そんな日に、何度も何度も駆けてきた赤い助走路に、捻挫を抱えて立っている。
思えば小学生の頃、秋の県大会の一週間前に捻挫したことがあった。幅跳びの練習をしていて、踏切のときに体勢を崩してしまって、しかしそこで止まれるはずもなく、足の裏ではなく側面で地面を蹴って跳んでしまったのだ。大会に出る頃には大体治っていて、ちゃんと表彰台にも上がれたけれども。
もしも幅跳びが3日目じゃなく1日目にあって、捻挫していたのがその日だったら、まだ何とかなったかもしれないのに。そんな風に思わずにはいられない。つくづく運が悪いのか、はたまた日頃の怠惰のツケなのか。それでも私は今、助走路の上にいる。口元に笑みさえ浮かべて、追い風に吹かれて。
1本目。
踏切板、遠く見える砂場、広がる空にロックオンする。いつもとは反対の足で勢いをつけるのに戸惑いつつも、いざ飛び出してしまえば、そこからは一瞬だ。瞬く間に踏切の瞬間が近付いてきて、何も分からないままとにかく地面を蹴って、蹴って。
いくら本調子ではないとは言え、結構なスピードは出ていた。慣れない左足でホップ、ステップと跳んだ後だからフォームも崩れまくっている。怪我を負った右足は本能的に跳ぶことを避けて、私はそのまま砂場を走り抜けた。
遠い。今までは何の苦労もなく辿り着けていた砂場が、尋常ではなく遠い。踏切板からたったの9メートルでしかないその距離が、絶望的なまでに遠い。
2本目。――やはり、届かない。
朝から動き続けていて、私の右足首は確実にHPを削られていた。テーピングも緩んできて、余計に足首がぐらつく。気持ちもぐらつく。
大丈夫大丈夫、と頬を叩いて、上からテーピングを重ねて巻いて、スパイクの靴紐をこれでもかというほどきつく締め直して、あとは、砕けないように祈って。
「続いての跳躍は試技順17番――」
いよいよ3本目、私が助走路に立つと、場内に響くおなじみのおばさんの声。
ああ、今日は三段跳も実況が入るんだ。我々はメインスタンドの真ん前で競技しているのに、観客の視線は砂場を通り越して奥のメインストレートやらバックストレートやらの方へ行く。そのおかげで全然注目されない悲しい競技なんだけれども、今日ばかりは少しの脚光を浴びることができるらしい。
「――皐月高校の谷川青葉選手。ランキング5位の選手です」
ああもう、余計なこと言わなくていいよ。そうだよ、私だって本当は関東大会出場権4枠を賭けた争いに食い込むつもりだったのにさ。今の私の跳躍、というか跳躍ですらない、勝負のスタートラインにすら立てない試技なんて見てもらわなくていいんだよ。
見る人を拍子抜けさせることは分かり切っている。みっともなくて悪かったね、でもこれが、私なりの意地なんだよ。礼儀なんだよ。
風を待って。呼吸を鎮めて。助走路の先には、きっと砂と曇り空以外の何かが待っていると信じて。
ぶわっと吹いた風に背中を押されて、視線を振り切って走り出す。
身体が覚えたリズムに任せて、柔らかく、最初の3歩。一気にスピード全開まで、もう無我夢中で持っていく10歩。そして階段を駆け上がるように刻んで3歩、ホップ、ステップ、
ラストのジャンプ!!
痛みに備えて歯を食いしばり、力を込めてタータンを押し返す。そしてもう一度だけ宙に浮き上がる――
届かなくて、タータンの上に4歩目を着いて、もつれるように転んで、砂場の上へ投げ出されて。
バサリと赤旗が上がって、スタンドが一瞬、しんと静まり返って。
乾いた砂の味の中に、拍手が聞こえた。
コロナのおかげで、感染予防対策とか言って、声を出しての応援は禁止になった。その代わりに拍手で応援するのが恒例になった。
でも、これはもしかして労いの拍手だろうか。何か他の競技を並行してやってたっけ。
随分あたたかい音だった。
――砂を払って立ち上がり、こみ上げる思いを込めて一礼し、砂場を出る。
終幕だ。これで私の総体は終わった。高校3年間の陸上、小中高の9年間の陸上人生に一つのピリオドを打った。
3本とも記録なしだ。順位すらもらえない。それでも私は満足だった。数字なんかいらなかった。
気温は低いのに滲む汗が、ひんやり肌を撫でる風に溶けては、また噴き出す。
壊れた足が熱い。身体も熱い。まともに歩けやしない。
翼の折れた鳥は一羽、無駄と知りながら飛び立って。それが燃え尽きて墜ちたのは、心だけでも太陽に届いたから、かもしれない。
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