墜落ナイトメア
総体3日目。本番。
今日は幅跳び。9年間続けてきたこの競技に、よくも悪くも一つの終止符を打つ日だ。そして、本命の三段跳、明日への布石でもある。
幅跳びに関しては、元から順位なんて狙っていない。ただ、ずっと目標にしてきた5メートルを跳べたらいいな、なんて。そして何よりも楽しく競技しようと思った。まだ明日もあるんだし、明日が本当の本番みたいなものなんだし、緊張するのはそのときでいいよね。
「行ってきます!」
家族に、クラスメイトに、そして部の皆に送り出され、私はフィールドへ向かった。ちょっと重苦しい鈍色の雲なんか、気になりもしなかった。
気合も手伝って、身体の調子は過去一いい。今日は跳べるぞ、そう信じた。
◇
助走練習の時間が始まる。3本ほどやって、よし、今日も走れる、と内心ガッツポーズする。踏切板に足が合うかどうか、スタンドから見ていてくれた後輩からもグーサインが出た。
――よっしゃ。いけるぜ。
血が沸くとはまさにこのことなのだろう。身体がフワフワした。
1本目の跳躍が近付く。それぞれに割り当てられたナンバーカードの番号を呼ぶ声に耳を澄ませながら、ストレッチをしたり、走ったり、イメトレをしたりして過ごす時間は落ち着かない。
まだか。まだか。まだなのか。待ってろもうすぐだ、あと7人くらいかな。スパイクの紐を締め直す。
あと1人。ジャージを脱いで畳む。
あと2人。719番準備、と呼ばれて、控え場所からフィールドに出る。曇りだけれど眩しい。太陽は見えないけれど十分暖かい。
あと1人。助走路に向かうついでに、30メートルくらいダッシュする。
次だ。私。
追い風だ。2.0m/s以下、参考記録にならないくらいの追い風。好都合だ。一番いい風。
赤いコーンが外されて、バサッ、と白旗が振り下ろされる。その瞬間、音が消える。
すぐ隣で行われている花形競技、100メートルの実況も、声援代わりに観客席から鳴り響く拍手も、全部。助走路、砂場、その先の空だけが私の世界になる。
息を吸う。
身体を後ろに引き――勢いをつけて飛び出す。
軽やかな始めの5歩。リズムは崩さず、ギア全開でスピードに乗る10歩。からの刻む3歩、そして叩きつける最後の1步!
あ、飛んだ。
きた。
そう思った。思わず横のメートル板を見た。
そして墜落した。
――長い時間に思えたけれど、それは普段の跳躍と比べての話であって、空中にいる時間なんて本当は一瞬だ。だから、何が起こったのかはよく分からない。
ただ、「バキッ」ていう恐ろしい音が耳に刺さるのだけは分かった。
何の音だろう。砂場に倒れ込んで、すぐに分かった。
私の足首から鳴った音だった。
明日の砕ける音だった。
音より幾許か遅れて、痛みが身体を走り抜けた。
曲がってはいけない角度で砂場に突き刺さっている右足を引き抜いて、何とか立ち上がった。
ただ関節が鳴っただけだ、痛くない。そんな期待は、砂場から出て控え場所に戻る途中であっけなく消滅した。
やばい。やらかした。
その二言が頭の中をめちゃくちゃに駆け巡った。音が戻って来なかった。
◇
積み上げてあるジャージの横にどさりと座り込んで、とりあえず上着を1枚、ユニフォームの上に羽織る。
身体が異常に熱い。気温はそれほど高くないのに、震えが止まらない。冷や汗なのか脂汗なのか、変な汗が噴き出した。
思うように動かない手で紐を解いて、スパイクを脱いで、靴を脱いで。一見したところは何ともなっていない。ただの、靴下焼けが目立つ足首。
けれども中身はもしかして、もう壊れているんじゃないか。
凍らせて持ってきていたスポーツドリンクのペットボトルを当てて冷やした。一気に心の底が冷え切った。
固定用のテーピングで、右足首をぐるぐる巻きにする。痛くない痛くない、そう念じながら。実際、それほど痛くはなかった。
今日の残り試技2本は棄権しよう。そして明日の三段跳に出よう。いけるか? いけるだろ。そう思いながらガチガチに固定した。
怖々立ち上がり、ぺたりと足を着いてみる。大丈夫。痛くない。
裸足のまま少し歩いてみる。歩けないことはない。
靴を履いて外に出て、少し走ってみる。――あ、やばい。走れない。
痛いというより、やばい。私の語彙力云々の問題じゃなく、そんな風にしか言えなかった。
痛い痛くない以前に、足首がぐにゃぐにゃして、力が全く入らなかったんだ。
――その後すぐ、今年から顧問になった先生が控え場所まで来てくれた。丁度、踏切板の横で審判をしていたその先生にも、私の足首から鳴ったらしい音は聞こえていたって。
歩けるからきっと、骨は無事。とりあえず医務室に行って診てもらおう、ということになった。
淡々と進んでいくコールと皆の跳躍に逆行して、一人荷物をまとめる。あ、そうだ、その前に――。
雨天走路から外に出て、スタンドで見てくれている後輩の姿を探した。いた。軽く手を振ると、すぐに気付いて降りてきてくれる。
「さっきので足首やっちゃったから、残り2本は棄権するから。ベンチ戻ってていいよ」
我ながら声が硬いし震えてんな、と思いつつ精一杯笑顔を作る。後輩の顔が全然見えない。逆光だからかな。
「ごめんね。ありがと」
何とかそれだけ言って雨天走路に引っ込む。後輩が何か言った気がしたけど聞こえない。
自分の言葉がずしりと重みを持って、今更ながら事実を突きつけてくる。
でも、後輩が上にいてよかった――もしも見上げていなかったら、到底、涙が零れるのを止められやしなかったろうから。
もう駄目かもしれない。いや、ここで終わってたまるか。二つの思いが目まぐるしく交差して、曇天の中に稲光を閃かせていた。
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