夕暮オーバーレイ
「300TTいきまーす」
人も疎らになってきた練習場に響くマネージャーの声。
さて、やはり意気地なしの私は、列の外側、一番後ろに並んでスタート体勢を取る。元気な方々にはどうぞ先に行ってもらって、私は流し程度に後ろからついていこうというわけ。いや、本当に腰が分離しそうなので今日は勘弁してください。と言っても今日で最後ですが。
「よーい、ハイッ!」
たかが300。1分もかからん、と、怠惰な足を説得して走り出す。
やっぱり短距離ブロックの皆は早い。じりじりと背中が離れていく。
エネルギー切れが怖いので最初は温存。本当は最初から突っ込まなきゃダメなんだけどな。
差しかかったコーナー、身体を内側に倒して頑張れあと200。150。そろそろラスト100。
カーブを抜けて身を起こした瞬間が、私のギアが入るとき。外側から一気に後輩を抜かす。同級の短距離勢の後方に食らいつく。そして隣に並ぶ――あと少しで抜かせる、というところでゴールする。
意外とあっという間だった。
「よっし……これで300TTとは金輪際おさらばだぜ……」
芝生に這い蹲って、呼吸の苦しさと襲い来る疲労感とで悶絶しながらも、そう思うと無駄に清々しかった。
思ったより飛ばしてしまった。仮に一人で走ったとしたら、こんなにペースを上げてはいない。
根性はないけれど闘争心は一欠片くらいあるようで、前に人がいると幾らか頑張れる。それが部活の、仲間のいいところだ。
◇
「そういえば、この練習場来るのも今日が最後だよ」
片付けをしながら、友人が言った。言われてみればそうだ。
「確かにー。写真でも撮ってこうかな」
「青葉が写真なんて珍しいじゃん。撮ってあげようか?」
「違ぇよ。グランドを撮るんだよ。私を撮ってどうすんのよ」
「何だ、残念」
コイツ、私が写真に映るのが嫌いなのを知っていて。私は景色しか撮らないし、人と一緒に撮りたくないのだ。理由は単純、私は可愛くないから。しかも背が低いくせに筋肉だけはついてて、もっと写真写りが悪いから。ゴツくなるのはある意味宿命なんですよ、陸上部に入って短距離系統の種目をやってる時点で。
とまあそれは悲しくなるので置いておく。
桜が散って久しい枝には、まだ少し柔らかさを残した緑の葉が揺れる。残光は西の空を薄紫に染めて、降りてきた宵闇の藍と溶け合う。オレンジ色の夕焼けはあまり好きじゃないんだけれども、このグラデーションなら大好きだ。今日の空がこの色でよかった。
真っ直ぐ伸びる助走路と砂場と、練習場のフェンスと、その先に広がる夕暮れの空。スマホの四角い画面に切り取った。
「じゃあねっ」
「総体頑張ろうねー」
皆、帰っていく。私は皆と帰る方向も違うし、電車の時間までまだしばらくあるから、練習場で暇を潰していく。
スパイクから無限に出てくる砂を落としながら一人で座っているとつい、センチメンタルな気分になってしまう。
あーあ、結局ここまで来てしまった。辞めようと思ったのに辞められなかった。皆は優しいから私が辞めると言ったら残念がってくれたし、今年異動になった前顧問の先生も引き止めてくれた。その優しさに甘える程度には、私は弱かった。
何でそんな風に追い詰められたかと言えば、プレッシャーに潰されたからだ。幅跳びに限界を感じて始めた三段跳で、秋の新人大会では県5位で、関東大会まではあと2センチで。県の強化練習会にも呼ばれて、先生にも期待されて、たくさん練習を見てもらって。
私はそれに応えられるような選手じゃない。上位になればなるほど、アスリートとしての人間性を求められるけれど、私にはそんなもの、ない。メンタルよわよわのヘタレ。競技者失格。
――こう考え始めると止まらなくなるからやめよう。
最後の大会の前くらい、ポジティブに考えよう。
練習はそれなりにしてきた。特に跳躍フォームの自己分析と、何をどう修正すればいいのかという研究は飽きるほどしてきた。そしてその通りに動けるように意識しながら跳んできた。走ってきた。ただ惰性でメニューをこなしてきた訳じゃない、意味のある練習にはなってるはずだ。
それをぶつける。先生の恩に報いる。表彰台を狙う。
心做しか自転車を漕ぐ足は軽かった。300TTを久しぶりに結構飛ばして走ったから、逆に足が解れたのかもしれない。
うとうとしながらガラガラの電車に乗って、家に着いたら10時半で、ご飯食べて風呂に入って布団に倒れ込む。こんな生活も、もう終わる。
砂まみれで泥臭い、小中高9年間の競技人生。今更だけど、そんなに悪いものじゃなかったな、なんて気にすらなった。競技者の資格がないとか散々ぼやいた誰かさんは、その口で最後の大会頑張ろう、なんて言うんだ。私という人間は、不甲斐ないほど都合よくつくられているらしかった。
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