The Last Jump
戦ノ白夜
陰鬱ジャンパー
「えぇー今日300TTあんの!?」
思わずそう叫んでしまう私がいる。
「うん、メニュー表に書いてあったよ」
「嘘だぁ。どこにそんなことが……いや、しっかり書いてあったわ」
涼しい顔でメニュー表のスクショを差し出してくる友人の指の先、そこには「全員300TT」という、あまりにも無慈悲な文字が黒々と。つまりこれは、私がこれから取り掛かる本練習を終えた後に、300メートルをダッシュさせられることを意味する。
我らが陸上部恒例、トドメの全員300TT。私はこれが大の苦手なのである。(※TT:タイムトライアルの略)
「まあでも、よく考えたら300もこれで最後なんだよなぁ。最後くらい走ろうかな」
「おっ、走る気になった?」
すかさず食いついて、にこにこしないでほしい。ええ、あなたにとっては今や、300TTなんてデザートみたいなものなんでしょうけども――私にとっては激重メインディッシュですから。300なんて聞いただけで胸焼けしてしまうわ。
「いや、ガチでは走らないよ。腰痛いし」
どこかが痛いと口に出すたびに、心の奥には痛みではない気持ち悪さが生まれる。石を飲み込んだかのような重苦しさがわだかまる。
そうやって予防線を張るあたり、私ってつくづく根性なしだな、とは常々思うよ、流石に。走るのはあまり好きではない。いかにして自分を追い込むかではなく、どうやって手を抜くかしか考えられないのが私。最低だね。
そんな風に思いながら続けるくらいなら、自分のためにも部のためにも、辞めた方がいい。
よし、辞めてやろう――そう思ったのは、いつだっただろう。去年の11月? 顧問や部の仲間たちに話をしたのは確か、今年の3月だ。
そして、5月。
結局、私は未だにスパイクシューズを履いて、タータンの上に立って、砂場に飛び込んでいる。皆と一緒に総体――最後の大会に出場して、引退しようとしている。
谷川青葉、高3陸上部。専門種目は走幅跳と三段跳。冴えない
「じゃあ、短距離が300始めるタイミングで合流するよ」
錆びかけたシャベル、ささくれ立った木のトンボ、文字がほぼ消えてしまっているメジャー、穴だらけの踏切板。全部載せたリヤカーを引いて、今日も一人で砂場に行く。そしてトラックを走る他の部員を横目に、必要なことを適当にやる。
大会が近いから、それほどハードな練習はしない。助走の距離を合わせたり、軽く跳んでフォームの確認をする程度。あくまでもコンディショニングだ。
果たしてそこに300メートルのダッシュは必要なんだろうか、と恨みがましく思わずにはいられない。跳躍選手だから走らなくていい、なんていうのは大間違いなのだけれども。
延々とトラックを周回し続ける長距離ブロックの皆。何本も何本も全力のダッシュを繰り返す短距離ブロックの皆。――グラウンドの隅っこで、どうしたら上手く跳べるかなあと首を捻っている私。
正直言って、跳躍ブロックは楽だ。本当は砂場組だって走りを疎かにしてはいけないけれど、それでもやはり、走り込みの練習メニューが出されることは少ない。その代わりに自由度の高いメニューを組まれて、自分の跳び方を解析して、理想の跳び方へ近付けるように、より遠くへと跳べるように延々と試行錯誤している。傍から見たら休みまくっている。
私だって決して休んでいるわけではなくて、ちゃんと考えてはいる。それは嘘ではないのだけれども、どこか後ろめたさを覚えてしまうのだった。
お前は走ることから逃げて、砂場に辿り着いたんだろう。もしもそう言われたら、反論はできない。
◇
砂が入り込まないように、スパイクシューズの紐をきつく締める。
靴の裏に付いている金属のピンが、ザクザクと土に刺さる。ピンが痛みそうなので、なるべく刺さらないように爪先を上げてペンギンみたいによちよち歩く。ピンってすり減るんだよ、知ってた? どんどん先が丸くなって、潰れてくるの。今のピンも結構傷んできたから、ついこの間新しいピンを頼んでおいた。今日あたりには届いているはずだ、帰ったら取り替えておこう──。
緑の草地を貫く青の一本道、砂場へ続くタータンの助走路に辿り着く。
今日は一本だけ跳んでおくことにした。
生憎の向かい風だ。じっと待ち、揺れる自分の横髪で風を読み、凪いだ瞬間に飛び出す。
最初はリズムよく。それからスピードを上げて。最後の3歩は素早く、力強く駆け上がるように、そして白い板を思いっきり踏む。鳥のように腕を広げて、纏わりついてくる重力の腕は振り解いて、高く、遠くへ――ギリギリまで抗って、砂に突っ込む。
「いった」
身体を貫く鈍い衝撃が腰に溜まって爆ぜる。痛い。着地失敗。今のは、着地じゃなくて墜落。
「いたたたたた……」
砂に埋まったまま動けなくなる。それはそうだ、あのスピードで空中から地面に突っ込んで、しかも突っ込み方を間違えたら結構なダメージを食らう。
砂場から這い出して、砂まみれの服と身体を払って、自分の跳躍を振り返る。
――全然跳べてない。助走は遅いし、踏切はへにゃっとしてて弱いし、高さは出ないし、着地は失敗するし。イメージがまるで形になってない。距離も大体4メートル40くらい、自己ベストは4メートル80なのに。4メートル40なんて、小学生の頃の私でも跳べるっつーの。
今までの練習が一つも活かせてないような跳躍だった。
身体が鈍りまくっていた。身体が跳び方を忘れていた。
実を言うと、ついこの前まで部活が禁止されていたのだ。コロナのおかげで。
練習が再開されてからまだ2週間しか経っていない。感覚を取り戻せているはずもなかった。
最後の大会までは、あと5日。無理だ。間に合うわけがない。おまけに腰は痛いし、ハム(ハムストリングスの略。太腿裏の筋肉)にも違和感があるし、コンディションはもう最悪。
しかも今から300TT。最悪。
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