第51話 宗教は自分で自分を始末するためのもの

 安倍元首相襲撃の事件でいわゆる統一教会のことが話題になっている。

 統一教会というのは宗教団体らしい。

 僕は道元禅師の正法眼蔵を読み毎日坐禅することを40年近く続けている。坐禅をすること、正法眼蔵を読むことによって生きてこれたし生きていると思っている。

 しかし、坐禅すれば幸運がやって来る、病気が治るなんてことはない。坐禅した身心は真実・真理に従って行動できるようになるとは信じているけれど、生きるのはあくまでも自分自身だ。自分自身の行動の結果はすべて自分に還って来る。坐禅は自分の始末のつけ方を自分で判断できる身心を得るためのものだ。

 僕は宗教はその人がその人の人生を自分で生きていくための基準を示すものじゃないかと思っている。信仰しなきゃいけないが、どう判断しどう行動するかはその人の責任だ。

 多額の寄付を教壇にすることに何の意味があるんだろうか?そうすると「いいことがある」と思い込ませるなんていうのは団体に依存させるということであり、自分自身で判断するということを捨てさせる行為だ。これは上に書いた僕の宗教についての考え方と全く相容れることのないものだ。

 道元禅師は辨道話という著作の中でこう書かれている。

 「自家の財珍ざいちん受用じゅようするなり。証の得否とくふは、修せむもの、おのづからしらむこと、用水ようすいの人の冷煖れいだんをみづからわきまふるがごとし」

 僕なりの解釈。真実・真理は自分自身の中にある(自家の財珍)これを受け入れ使いこなせるようになることが目的だ。真実・真理を得ることができたかどうかは自ら坐禅した人間が自分自身で知ることであって、それは水を飲んだ時に冷たいか温かいかが自然とわかるのと同じことだ。

 つまり、あーしろこーしろ、こうしなければいけないなんて他人に言われることではない。自分自身が自分自身の身体で判断することなのだ。判断できるための身心をもたらすものが坐禅なのだ。

 他社に依存させるものは宗教ではない。と僕は考える。自分自身で自分自身の始末をつけられるようにするもの。それが宗教だ。僕はそう信じている。

 

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