第24話 とある少女の過去3


 お母さんが倒れた。

 それは私が中学2年生の時だった。


「翔鈴、お母さんが倒れたって...。今から迎えに行くから」


 職員室の電話でお姉ちゃんから伝えられたのはそれだけ。

 私は急いで支度をして、学校を早退した。

 先生や友達が何か言葉をかけてくれていたがそれどころではない。

 今こうして迎えを待っている時間も惜しいくらい私には余裕がなかったのだ。


 授業開始の時刻となり校舎内に静寂が訪れる。

 校門の前でポツンと一人待つ自分が、隔絶された世界にいるようで不思議な感覚だった。

 ロータリーの近くでざわざわと揺れる木々が私の不安を煽る。

 何とも堪えがたい気持ちが奔走し、今すぐにでも病院に駆け出してしまいそうだ。


 焦る気持ちを必死に押さえ、お姉ちゃんの職場の方角を見つめる。

 すると見慣れたオレンジ色の軽自動車がこちらに向かってきた。


「翔鈴乗って」


 そんな掛け声と共に助手席の扉が開き、私は飛び込むように乗り込んだ。


 病院に着く間にお姉ちゃんとの会話はなかった。

 自己暗示のように「大丈夫、大丈夫」と繰り返すお姉ちゃんの呟きと、赤信号の度にハンドルを強く握り締める指先は今でも鮮明に覚えている。


 病院に着く。


「お母さん!」


 軽自動車のドアを強く閉めて駆け出す。

 しかし、会いたい気持ちとは裏腹に母とはすぐに再開は出来なかった。


 張り裂けそうな気持ちで待った。

 不安な気持ちに潰されてしまいそうな私は楽しい想像をする。

 母や姉と新しく出来たお店でショッピングをしたい。

 たまには贅沢をして皆で美味しい物を食べに行きたい。

 やはり、一番は家での家族団欒だろうか。

 そのどれもが幸せな想像で、幸せなほど何故か苦しかった。


 お姉ちゃんは震える私の手を優しく握ってくれた。

 そんな姉の手を握り返す。

 皮膚に爪痕が残るほど強く握りしめていたが、姉は何も言うことはなく唯々じっと耐えてくれた。


 どれくらい待っただろうか。

 待合室の窓から射す夕暮れの光が私を照らす。

 母がいるであろう部屋の扉に神経を巡らせ、ふと騒ぎ出すカラスの鳴き声に己が身を震わせては、深く息を吸い込み気持ちを落ち着かせる。


 どれくらい待っただろうか。

 私を照す淡い光は姿を隠し、漆黒の帳が町を包み込むように広がっていく。


 もしかしたら、あの扉はもう開く事はないかもしれない。

 母の顔を見る事は出来ないのかもしれない。


 弱音を吐き諦めかけていたその時、その扉が開く。


 全身が震え上がった。

 何か声を出そうとしたが息がつまる。

 まるで呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。

 私は吸い込まれる様に扉に近寄る。


 大好きなお母さんがあの先で待っている。

 やっとお母さんに会える。

 昨日まで元気だったのだ。

 きっと、なんて事ない顔で私を迎えてくれる。

 もし会ったら、普段は照れ臭くて言えなかった感謝の気持ちを伝えよう。

 申し訳なくて言えなかった我儘を少しだけ言ってみよう。

 そして、優しく抱き締めて貰うんだ。


 その時は最悪を考えもしなかった。

 きっと私が愛情を沢山貰って育ったからであろう。


 でも、現実は甘くなかった。

 母は私と言葉を交わす事もなく、抱き締めてもくれなかった。

 唯々眠っているのだ。


 伝えたいことがいっぱい有った。

 だから、静かに眠る母に何度も何度も語りかけた。

 でも聞こえてくるのは、お姉ちゃんの嗚咽だけ。


 この時私は悟った。

 今まで自分がどれほど幸せな存在だったのかを。


 そして、この日は私にとって幸せとは一番遠い日となってしまった。


 ****


 どんなに辛い事が合っても世界は私を待ってはくれない。

 大好きだった母の写真を見る。

 どうやら心には大きな穴が空いてしまったようだ。


 そんな穴を埋めるようにお姉ちゃんは優しくしてくれた。

 自分だって辛いはずなのに私を励ましてくれた。

 お姉ちゃんが私の前で泣いたのはあの病室でだけだ。

 お姉ちゃんはとても強いんだと思った。


 でも見てしまった。

 一人で静かにすすり泣く姉の姿を。

 私の前では弱さを隠して私の事を考えて...

 だから決めたんだ。お姉ちゃんを支えようと。お姉ちゃんと生きていこうと。


 仕事をしている姉に代わって、家の事は全て私がやった。

 お姉ちゃんに喜んで貰えるのが好きで、料理には力を入れた。


 心に空いてしまった穴が少しずつ埋まっていく。

 私にはまだお姉ちゃんがいる。


 やっと前を向いて歩けるようになったんだ。


 そんな時──


『大好きな翔鈴へ、幸せに生きてください』


 お姉ちゃんは手紙とお金を置いて私の前から消えてしまった。
















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