4
家への帰路。ステアリングを握りながらも、私は心ここにあらずといった状態だった。百キロを超える道のりの間、よくもまあ事故らなかったものだ。
そして、帰宅後も私は呆然としたままだった。
あの二人は、私とはもう何の関係もない。単なる他人だ。そう言い聞かせてもダメだった。
島田 明日香が妊娠している。それだけで、底なしの敗北感に私は打ちひしがれる。完膚なきまでに彼女を叩きのめしたはずなのに。
私が望んでも得られなかった、我が子を育てる喜び。それを彼女はいとも
そして、わざわざそれを私に伝えてきた、良祐さん……おそらく、自分と彼女をこっぴどく痛めつけた私に対する、ちょっとした意趣返しのつもりなのだろう。やってくれる。
幸せそうな二人が憎かった。だけどそれは私の醜い気持ちの成せる技だ。自分を裏切った人間なんか不幸になればいい。無意識に私はそう願っていた。それに気づかされた私は、余計に落ち込むばかりだった。
---
次の日は瑞貴ちゃんのレッスン日だった。今彼女が練習しているのは、ショパンの
テレビや映画でもよく取り上げられる有名な曲。シンプルなメロディだし、昔の人気ドラマで素人同然の俳優が曲がりなりにも弾いていたので、簡単な曲だと思われている。
とんでもない。むしろこの曲は難しい部類に入るのだ。簡単に聞こえるのは、テレビや映画ではみな冒頭部の簡単なフレーズしか演っていないからに過ぎない。
そもそも、この曲の冒頭部の優しく甘いメロディは、あまり別れという印象を感じさせない。しかしテンポが一気に速くなる中盤では、まさしく別れの激情が余すことなく表現されている。
とても小学六年とは思えない。技術的にはほぼ完璧な演奏だ。ただ……やはりまだ感情表現が
それにしても……昨日、自分の離婚について再び深く思い起こさせることがあった後で、ここまで見事な演奏の「別れの曲」を聴くなんて……なんて皮肉なんだろう。
「どうしたの、先生」
いつの間にか、演奏を終えた瑞貴ちゃんが立ち上がり、怪訝そうな顔で私を見つめていた。
いけない。少しぼうっとしてしまったらしい。それにしても……
驚いた。彼女が自ら口を開くのは、とても珍しいことなのだ。
「……え?」
「先生、なんだかいつもと違うよ」
……なんてことだ。
努めて感情は表に出さないようにしていたつもりだったのに……こんな小さい子に見抜かれるほど、私は打ちのめされていたのか……
いや、瑞貴ちゃんは繊細な子だ。私の微妙な感情の揺れを、彼女なりに感じ取ったのかもしれない。
「ううん。何でもないの。何でも……」
その時だった。
私の両眼から、涙が零れ落ちる。
「どうしたの!? 先生、泣いてるの? 何か悲しいことがあったの?」
瑞貴ちゃんの顔も、今にも泣きそうに歪んでいた。
思わず私は、彼女を抱きしめる。
「先生……う……ぐすっ……」
私の胸の中で、瑞貴ちゃんは泣き出した。
やさしい子……
そう。彼女はこういう子なのだ。決して感情が希薄なのではない。むしろ逆だ。共感力が高すぎて、自らも他人の感情に翻弄されてしまう。彼女の無表情は、そうならないための彼女の仮面、いや鎧だ。
だけど今、鎧を脱ぎ捨てた彼女のぬくもりが、
そうだ。私にはこの子がいる。この子を全力で育てよう。この子のピアニストとしての親は、私なんだ。
それに、私自身も中田さんに言ったじゃないか。起きた物事に善いも悪いもない、って。だから昨日のことも、きっとこの子を育てるための糧になる。いや、そうしなきゃならないんだ。
---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます