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 その日、私は市民オーケストラの定期地方公演にゲストピアニストとして参加していた。


 人口三千人にも満たない地域だが、会場のコミュニティプラザのホールは聴衆で八割方埋まるほどの盛況だった。私はオーケストラをバックにピアノを弾いた。演目はラフマニノフのピアノ協奏曲コンチェルト第2番。色んな映画やポップスで引用されている、定番中の定番だ。


 演奏会は無事終了。玄関を出ると、辺りはもう薄暗い。オケのメンバーたちから打ち上げに誘われたが、明日もピアノ教室の仕事があることを理由に断った。彼ら彼女らに別れの挨拶をして、私は駐車場に停めてある愛車のミニ・クーパー・40thアニバーサリー・リミテッドに向かった。大学卒業後に新車で買って以来、もう二十年近く乗っていて、さすがに色々壊れることもあるが、その都度行きつけのショップに頼んで修理してもらっている。私のお気に入りだ。現行のBMWミニは私の趣味に合わない。やはりミニと言えばクラシックだ。


 ふと、私の車のそばに、一人の人影があるのに気づく。おそるおそる近づくと、その人は私の方に向いて、言った。


「久しぶりだね」


 ……!


 その声の主は、すぐに思い出せた。忘れるはずがない。


「良祐さん……」


---


 良祐さんは私なら絶対選ばないような、やけに派手な色合いのブルゾンを着ていた。若作りのつもりだろうか。もう四十二だというのに。いや、それとも……


「どうして、ここにいるの?」


 単刀直入に、私は問いかける。


「県立病院をクビになったからさ」彼は苦笑しながら応えた。「勤務時間内の不倫行為がバレたおかげでね。今はこの地区の診療所で働いてる。ま、色々不便なこともあるけど、職があるだけマシさ。今日はオケが来てラフマニノフの2番をる、って聞いて、もしかしたら君がピアニストとして来るんじゃないかな、と思ってね。ビンゴだった」


「……そう」


 正直、あまり会いたくない相手だった。それでもかつては一緒に暮らした人なのだ。無碍むげにはできない。それにしても、彼はいったいどういうつもりなのか。よりを戻したい、とでも思っているのだろうか。


 冗談じゃない。こっちにはそんな未練など毛頭ない。そりゃ、寂しいと思うこともなくはない。だけど、再婚するにしても彼とだけはご免だ。先に釘を刺しておかなくては。


「私は、あなたとやり直すつもりは全くないから」


「分かってるよ。僕ももう、再婚したから。明日香とね」


「!」


 思わず私は良祐さんの顔をのぞき込む。点いたばかりの駐車場の照明灯が、彼の少しニヤけたような表情を浮かび上がらせた。


 やはりか。考えてみれば、昔からこの人は自分の服装には全く無頓着だった。そのブルゾンは彼女が選んだのね。どうりで、彼女らしい下品な趣味だわ。


 良祐さんは続ける。


「結局アイツも病院辞めることになって、実家も勘当同然の状態で、行き場をなくしてしまって……僕しか頼る人間がいなかったんだ。だから今、一緒に住んでる。君への慰謝料を一括で肩代わりしてくれた彼女の両親に返すために、二人でなんとか頑張って稼いでるよ。子供も出来たんだ」


「!」


 彼の最後の一言は、とてつもない重さをもって私の胸に突き刺さった。


「もう八ヶ月になる。これでようやく僕も父親になることが出来るよ。もちろん子供を育てるためにもさらに頑張らないとな。だから、僕のことは心配いらない。それだけが言いたかったんだ。じゃあ、元気でな」


 そう言い残すと、良祐さんは踵を返し、遠ざかっていった。


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