三回の約束(百合)

 呼び出し音が三回鳴って切れた。

 私にはそれがあの人からの着信だと分かる。かけ直そうか、気付かない振りをしようか二十秒くらい考えた。スマホを手に、充電器のコードを外す。無意識に引き抜いたコードを見ながら、私はやはり電話をする気なのだと自分でも呆れた。

 パスワードを打ってロック画面を解除、着信履歴を見る。やっぱりだ。みおん。その平仮名三文字が私の心を躍らせる。

 彼女の名前は瀬田美音せたみおん。高校時代の一つ上の先輩で、その頃恋人同士のように付き合ったこともあった。今思えばただの友達の延長線で恋人らしいことなど何一つしていなかったのだが、私は満足していた。友達との会話で恋人の話をする時、私もその輪に入れるのが嬉しくてそれだけで良かったのだ。美音に何を求めていたのでもない。ただ恋人でいてくれればよかった。

 しかしそんな甘いだけの関係は美音の高校卒業と同時に終わった。私と美音は恋人同士だったけれど互いに好き合っていたかは分からないままだった。好きだと言い合ったりもしたが、それは友達に言う好きと何が違うのか問われても当時は答えられなかった。今でも答えられないと思う。

 ただ私が美音を好きなのは今に続いてもそうで、大学を卒業し社会人になってからも美音との付き合いは続いていた。お互いに当時のことは言わない暗黙の了解のようなものがあった。遊びに行った思い出話くらいはするものの、恋人であったことはまるで初めからなかったように、どちらも口に出さなかった。出せなかった。勿論恋人だったことに後悔はしていない、どころかするようなものでもない。呼び方が違っただけで友達としての付き合いからは何一つ逸脱したものはなかったのだから。

 社会人になってからは、互いに忙しくて連絡を取れないことも多くなった。寂しいけれど仕方ない。私がそう諦めている中で美音は言った。

「ねえ瑠衣るい。約束していい? 私、暇な時に電話するから。三回鳴らして切るから。暇だったら折り返してよ」

「えっ、先輩から連絡してくれるんですか」

「もう~先輩じゃないんだからさぁ」

 美音は火照った頬を冷やすように両手で顔を仰いだ。指先には涼しい色をしたマニキュアが付いている。細くて長い爪はヒンヤリと冷たそうで、私は噛みつきたいと思った。暑い。つい飲み過ぎたらしい。そろそろアイスでも頼もうか。テーブルに投げ出されたメニューを横目に見ていると、美音も一緒になって眺め始めた。私は彼女のほんのり赤い頬を見る。

「私にとってはずっと先輩ですよ。てか、癖になってるだけなんだけど」

「抜けないねえ」

「抜けないっす」

 いつか、居酒屋で二人お酒を飲みながら交わした約束。『約束していい?』というのは美音の口癖だ。美音は私に対して勝手に約束をする。私というより自分自身に対して約束しているようだった。『約束していい? 日曜に瑠衣を迎えに行くから買い物行こうよ』……。

 私は美音のことをまだ美音と呼べないでいる。スマホにはわざと名前で登録してあるのに、直接会うと言えなくなる。先輩と後輩でいられなくなる気がする。この間柄を取っ払ったら私と彼女は何になるのだろう。今は先輩と後輩、友達、元恋人。色々な肩書きでいてどれもしっくりこない。

 一週間に一度鳴る三回の呼び出し音。私はいつもかけ直すか悩む。結局耐えられなくて電話してしまうけれど、ずっと放っておいたらしつこく掛けてきてくれないかな、という意地悪な気持ちもあった。

 何故美音は電話を切るのだろう。本当に会話がしたいならいつまでも鳴らし続けてくれればいいのに。私の負担になるとか、考えているのか。勝手に一人で約束して、私の話は聞いてくれない。別れた時もそう、付き合った時もそう。いつも美音は勝手に決めて、私の意思はそこに無い。私はそれでも良かった。違う、それが楽だった。決めたのはいつも先輩で私の恋人だった。

 美音は私に何か遠慮をしている。私も多分、彼女との距離を測りかねている。

 私は、実はずっと美音に聞きたくて聞けていない事がある。恋人がいるのかどうかだ。高校を卒業してから、一度も話題にした事が無かった。お互い別の大学に通い、今も別の職場にいる。知らない間に恋人が出来ていても可笑しくはない。私がこうしている間にも美音は、私が知らない誰かとメッセージを交わしているかもしれない。電話じゃなくて、メールとか、ラインとか、SNSとか。嫉妬ではないと思うけれど、私の知らないところでこっそり何かを交わしているのは嫌だった。こっそりも何も、私と美音は何でもないから別に何をしていようと関係ないのだけど。

 私はスマホを片手に、まだ悩んでいる。電話しようか止めようか。話したい事は特にない。でも話し始めると無限に出てくる。美音の声を聞くだけでよく眠れる。明日も頑張れる。

 彼女のことが好きかもしれない。友達としての感情なのか、違うのか。分からない。





 電話を掛けようか悩んでいた。瑠衣から返ってこなかったらどうしよう。そんなネガティブなことばかり考えてしまう。返ってこなくてもいいのだけど、期待を裏切られるのは少し辛い。

 可愛い後輩。スマホの画面には“瑠衣”の文字が出ている。通話ボタンを押すのに勇気が要る。

 瑠衣は押しに弱い。彼女とは高校の時、一緒にテニス部を辞めて、そこから仲良くなった。私は別に、テニスが好きというわけではなかった。記録を残せば進学が楽になると思いただそれだけの理由で入部した。結局疲れて続かなかった。一緒に退部した流れで何となく一緒に下校したのが始まりだった。瑠衣は、『テニスとか楽そうに見えたのにぃ』と練習中に捻ったらしい手首をずっと擦っていた。

 あ、可愛い。

 瑠衣は日焼けしたんだと不満げに言い、半袖から覗く腕をかざして日焼けの部分と白い部分の境目をわざわざ見せてくれた。私が綺麗に焼けたね、と言うと、食べごろですよ、と笑いながら返してきた。本当だね、言おうとして止めた。代わりに笑った。

 私は瑠衣と友達の関係を続けて、軽いノリで恋人になった。勿論何もしなかった。瑠衣が怖がると思ったからだ。私は彼女の恋人というポジションで十分に満足していた。もし瑠衣に何かがあっても恋人だから一番に報告が来る。それだけで良かった。あの子に何かをしたいわけでは無かった。ただ可愛かったから守りたかっただけだ。

 たまに居酒屋に行って一緒にお酒を飲むと、瑠衣は飲み過ぎる。いつも飲み過ぎる。真っ赤になった頬に手を添えてやると、

「先輩の手、気持ちいいですねー」

「何で毎回飲み過ぎるのかなあ瑠衣は」

「美味しいからですかね」

 瑠衣は私の手を愛おしそうに撫でた。冷たいから。私はその為に、いつも終わり頃にアイスを注文して、器で自分の手を冷やすのだ。

「先輩また電話くださいねえ待ってますからね!」

「分かってるよぉ」

「本当ですか? 本当ですかねえ?」

「本当だよ」

 居酒屋を出ると、瑠衣はふらふらと体を揺らしながら笑った。帰り道は二人で駅まで歩くのがお決まりだ。

 瑠衣は私が勝手にした約束をずっと忘れない。約束を変えようともしない。自分から何かしようともしない。私の約束を大事に大事にしているだけだ。

 私は週に一度、瑠衣に電話をする。もしも瑠衣に恋人が出来ても、私の知らない人と話していても、私の電話で私のことを思い出すだろう。

 必ず、呼び出し音は三回だ。鬱陶しいと思われてはいけない。私は、さりげなく瑠衣の生活に入り込みたい。彼女の当たり前になりたいだけだ。




お題『愛、それは電話』

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