BCC前々日の夜のこと
ブリーダーズカップ・クラシック。1984年より始まったアメリカ合衆国競馬の祭典である
「ここまではいいかな?」
「はい」
俺の説明に石田君が相槌を打つ。ノート代わりの手帳に俺の言葉を記していく彼の態度を眺めつつ、よくも落ち込んでいた野球少年からジョッキー見習いへと進化したものだと感心した。
「BCCの出走時刻って日本だと何時になるんですか?」
「……ちょっと待ってね。今年はデルマーで、二日目の第九レースだから……、午前七時四十分かな」
「早いですね」
「競馬関係者にとってはありがたい時間だけどね」
ふふふと石田君と笑いあう。午前八時前後は朝の調教がひと段落して落ち着く時間だ、スタッフが集まって観覧するなら非常に都合がいい。
「それにしても、石田君が単独で俺に訊きに来るなんて珍しいね」
「ご迷惑でしたか?」
「んにゃ、やる気があって大変よろしい」
いつも団子三兄弟のように競い合ってる石田君たちだが、本日俺の元に訪れたのは彼だけだった。聞くところによると、音花ちゃんとほむらちゃんは幽霊部員であった乗馬部に顔を出して指導をしているらしい。担任の先生に頼まれて、恩返しのつもりのようだった。
「いや、幽霊部員で済まされてたのがおかしいんで」
「そりゃそうか」
立場が特殊だったから目こぼしされてただけだわな。
「追加で訊きたいんですけど」
「いいよ。なにが訊きたいんだい?」
「なんで一日にまとめてG1競走を行うんですか? 別日にバラした方が集客につながるんじゃないですか」
「ああ……。甘いね石田君」
チッチッチッと指を振る。石田君は不思議そうな眼差しで俺を見ている。
「まず、君は競馬に関わろうとして日が浅い。だから、海外の競馬事情をよく知らないからそのような疑問が出るんだ」
「海外の事情、ですか」
「うん、詳しく説明しようか」
事務所の会議室にあるホワイトボードの左に日本、右に海外と書いて、それらを分断するように縦線を黒い水性ペンで引く。
「さて、質問です。日本では一体いくつのG1があるでしょうか」
「えっ? えー……大阪杯、桜花賞、皐月賞、春天、NHKマイル、ヴィクトリアマイル、オークス、日本ダービー、安田、宝塚、スプステ、秋華賞、菊花賞、秋天、エリザベス女王杯、マイチャン、ジャパンカップ、チャンピオンズカップ、阪神JF、朝日FS、有馬、ホープフル、フェブラリーステークス、高松宮……。二十四個ですかね」
「おしい。東京大賞典もグレードワンなんだよねぇ」
完全に引っ掛けるつもりで訊いたので中央のG1を全て答えられて少し驚いている。フェブラリーステークスのG1じゃない感は異常。咳払いをして仕切り直す。
「つまり、日本にはG1が二十五レース。これって、海外のレースと比べると非常に少ないんだよね」
「……そうなんですか?」
「そうなんです。通年で平地開催してるのって日本ぐらいなんだよ。それなのにこのG1の少なささ」
「ちょっと待ってください。海外ってオフシーズンがあるんですか?」
「むしろ日本のレース事情がおかしいんだけどね。短期免許で日本に来ているドイツやフランスのジョッキーがいるでしょ? あれって、地元がオフシーズンだから出稼ぎに来てるんだよ」
「そうだったんですか!? てっきり武者修行かと……」
「そもそも日本の短期免許取れる時点で無茶苦茶強い騎手だからねぇ」
短期免許を取る三つのルールは免許取得国のリーディングジョッキーになる、指定海外競争を三年以内で二勝以上、中央競馬のG1を二勝以上だ。一番現実的に楽なラインが海外競走二勝の時点で狂っているボーダーラインではある。一つ言えるのは短期免許を取るようなジョッキーは武者修行をする段階を超えているってことだ。
そのことを石田君に伝えると、彼は神妙な面持ちになってボソリと呟く。
「……もしかして、吉騎手ってただの面白おじさんじゃないんですか?」
真剣な眼差しで言う石田君の態度に、俺は思わず吹き出した。
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