決定
「で、結局は三冠路線で行くと」
「そうなんだよねぇ、市古さん日和ってアンケート取っちゃったからさ。そりゃ苦労なんて気にしない一口馬主たちは三冠狙おうって言うに決まってるさ。自分でいうのもなんだけどわかりきった結末だ」
市古さん胃袋穴ぼこチーズ化未遂事件の二週間後、尾根さんの城で茶をしばきながら直近の雑談を繰り広げていると、不意にリドルの次走についての話題になった。事務所に置いてある競馬雑誌にも取り上げられていたから気になったんだろう。
「あら、アンタだったら天皇賞に出してたの?」
「そりゃ勝ち目のあるほうに出しますよ。俺は名誉とか大して興味ないですし、リドルに負担をかけすぎるのも嫌ですから」
尾根さん特製のあんまり美味しくないビーカーコーヒーでどら焼きを胃に流す。
「でもリドルの特訓に協力するんでしょ? 来週から追い込んでいくって聞いたけど」
「ええ、やるからには全力でサポートしますよ。まず馬用の低酸素訓練マスクを使用して心肺の効率をあげ、3000メートルに耐えられる身体にパンプアップしていきます。無論負荷はかかりますが、これで菊花賞で勝負になる方向にもっていく。ここから一か月が勝負ですよ」
「ちょっとまって、そんなマスクあった?」
「作りました。手出しで」
数百万かかった特注品である。もちろん自腹。
「……自腹なら、まぁ、沙也加にチクらないであげる」
「そりゃどーも。で、その特訓を行ったうえでやっと勝負ラインに立てるんですよね、リドルは。それにメグロプライド、メグロのステイヤーが参戦するからかなり不利寄りの戦いになる。おまけに騎手の腕も……」
こっちは足立騎手、メグロプライドは沼付騎手、あまり言うべきではないが騎手としての腕は沼付騎手が格段に上だ。状況はだいぶキツイ。
「ぶっちゃけアンタの目算ならどれぐらいの確率で勝てるのよ」
「一割あるなら十分ですね」
「ひっく」
どら焼きを丸のみにして尾根さんが鼻で笑う。獣医師として無理に挑ませる神経が理解できないのだろう、正論ではある。認めると競馬全否定だが。
「つまり、アンタはリドルと一か月間猛特訓で他の仕事できないってわけだ」
「俺がフィードマンから調教メニューまで全て管理しますからね、さすがに手が回らないので」
「……アンタって実は凄い奴よね」
「そっすね」
かわいくねーっと俺に言って尾根さんが髪をかき上げて、唇を尖らせる。ビーカーコーヒーをズゾゾと飲み干した尾根さんが、ビーカーを机に置く。
「ま、異常があったらすぐに言いなさい。ちゃんと見てあげるから」
「よろしくおねがいしますよ。それじゃあ仕事に戻ろうかな」
俺が診療所の椅子から立ち上がり、入口の引き戸を開けると、そこには全ての感情を殺した表情の大塚さんがいた。
「オゥ……」
「あら、自覚はあるんですね社長。ささ、お座りください」
「いやぁ、今からリドルの調子を見ようかと……」
「座れ」
「はい」
俺はさきほどまで着席していた椅子に再び座る。大塚さんはにっこりと笑ってない目を伴って、俺の目の前に仁王立ちし。
「先刻、港から凄い量のサプリメントが届きました」
「はい」
「領収書が八桁を超えてました」
「ばっかじゃないの」
「はい」
「なんなら収納する場所がありません」
「それは樫厩舎の倉庫に空きが」
「この前、乾燥栄養飼葉キューブを収納してますよね」
「はい」
「このような事態を引き起こす前に相談してくださいと言いましたよね」
「はい……」
「それではお説教です。今回は妻橋さんにも怒ってもらいますからね! わざわざホースパークから呼んできたんですから!」
俺のその様を見て、尾根さんは二杯目のコーヒーを注ぎ始めたのだった。
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