リドルの進路

 時は七月上旬、福岡の外れにある桜花島は、この時期週末になると行楽客がとても増える。いつもはゆったりとした雰囲気の喫茶スターホースやキャンプ場も家族連れや恋人たちで埋まってしまうことがあるほどだ。

 そのように、桜花牧場としては財布が潤ってウキウキな夏ではあるが、桜花のホースクラブはそうはいかない。そう、リドルの次走決定が迫っているのである。

 俺は既に経営とは関わっていないため、今はもう積極的に口を出すことはないのだが、市古さんが胃の辺りを抑えて相談にのってくれと死にそうな表情で懇願してきたので、深夜で観光客の少なくなったスターホースの一画を借りうけて話し合うことにした。

 市古さんと共に入ったスターホースではマスターがいつもの変わらない笑顔で透き通ったグラスを拭いている。俺は彼におすすめのコーヒーをよろしくといって、珍しく四人掛けの席に二人で着席する。


「ほんで、相談ってリドルの次走でしょ? 三冠狙うんじゃないんですか」

「私もそうしたいんですが、現実的な話をすると三冠って厳しい、ですよね社長」

「まぁ、ねぇ……」


 クーラーの効いている店とは言え、七月上旬の夜はもう蒸し暑い。先にもらったお冷を半分ほど飲んで、グラスをテーブルに置き、俺はコホンと一つ咳払いをして、

「リドルの適正距離は2800メートル、散々調教で距離を伸ばそうとしてますが、心肺の限界はどう頑張っても2900メートルまでしかもたないでしょうね。身体的なスペックです、どうしても限界があります」


 そもそも、アプリ水による身体強化は肉体の上限をあげるわけではなく、普通では鍛えきれない身体の限界まで肉体を研ぎ澄ませるだけだ。距離の限界を越えることは簡単ではないし、競走生活を終わらせるほどの無理がかかる。俺はそのような調教をすることはない。


「羅田先生は三冠は無理に目指さずに、秋の天皇賞に進むことをオススメしてくれました。確実に掲示板を狙える天皇賞へ向かうのもありだと」

「だったらそうしたらいいじゃない。天皇賞ならオールカマー、毎日王冠、京都大賞典、好きな前哨戦踏めるでしょ。逆に菊花賞なら目一の仕上げをするために直行になるんじゃないかな。どっちも面白いレースになるよね」

「そう! 三冠も三歳天皇賞制覇も見たい、心が二つあるんです」

 わぁ、泣いちゃった。

「ですので、社長。どちらに進む方がいいか、選んでくれませんか!」

「いやどす」

 大きなため息を吐いて、お冷を飲み干し、右手人差し指をびしりと市古さんに突きつけ。


「それはただの逃げだよ市古さん。責任者なんだから意思決定はアナタがしないと。無理のある三冠を狙うも勝ち目のある天皇賞を狙うのもクラブにとっての指針なんだから、代表者の市古さんがズバリ決めないと、いざという時に他の人の意見に流されて後悔するよ」

「それは、そうなんですが……」

 ああもうと髪をガリガリと描き散らして、市古さんがテーブルに突っ伏す。

「もう悩みすぎでハゲちゃいそうです」

 目の下にうっすらと隈ができるほどに悩んでいる市古さんを見て、しょうがないなと思いつつ、一つ助言をする。

「いざとなったら馬主さんたちにアンケートでも呼びかけたら? 応募フォームでも作ってさ」

「あー……そうですね。桜花牧場の広報にお願いしてもいいですか、ウチのクラブはその手の技術者がいないので……」

「うーん、しょうがないね。山田君なら一票投じる権利あげるからちゃちゃっとやってくれっていったら頑張ってくれるでしょ」

 文字通り粉骨砕身になっても遂行しそう。種付け会議は終身出禁だからこういうことは好きそうだし。


「あの、ちなみに社長はどちらがオススメですか……?」

「言うわけないでしょう。フラットに思考ができなくなるのに」

「ですよねー……はぁ……」


 市古さんには経営者として大いに悩んでほしい。きっと、その選択は成功しようとも失敗しようとも重要な経験になるのだ。



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