レース前の授業
ダービー当日。俺と音花ちゃん、ほむらちゃん、石田君に新田騎手はシミュレータールームのプロジェクターでレースが始まるのを今か今かと待ちわびていた。
「やっぱデカい映像で見るのは最高ですね」
「ホントは君、今のむらさき賞に乗ってるはずだったんだけどね」
「なんか一昨日から当たりきつくないですか鈴鹿さん!?」
「天王寺調教師より腑抜けないようにボロカスにしてくれと頼まれているので」
「先生っ!?」
真昼間っから酒を飲んでじゃれあう俺たちを白けた目で学生三人は見ているが、そんなものは知ったことではない。今日は日曜日、飲みたいときに飲むのじゃ。
「ダメな大人だ……」
「でもちょっと憧れるわよね」
「鈴鹿さん見習ったらホントにダメになるよ、ほむら」
「ホントにダメってなによ!」
あっちはあっちでじゃれあってるな。どれ、もう一本……。テーブルに置いていた缶ビールを手に取ろうとしたところで、その缶がヒョイと持ち上げられる。持ち上げたのは大塚さん、背後には尾根さんもいる。
「この子たちの前でお酒をガバガバ飲むのはやめてください。親御さんたちからお預かりしている以上模範となる行動を心がけるよう努力をお願いします」
「あれ、大塚さん休みだよ今日?」
「アタシが仕事だから、ワンコロたちの予防接種ついでにお茶しに来てたのよ。それでダービーが始まるからみんなで見ようかってなったらアンタの醜態を発見したわけ」
「鈴鹿さん社長なのに怒られてるー!」
「新田、アンタも天王寺先生に報告上げとくからね」
「うげっ……」
うーん、桜花牧場の女性陣の強さよ。
尾根さんはテーブルの上に散らばっていたカルパスの袋をむしり、一口で放り込むと俺に尋ねる。
「ずばり、ダービーの本命馬は?」
「昨日も丹羽さんに聞かれましたが勝つのは十中八九リドルですよ。枠番も二枠四番、逃げ馬でペースさえ握れば万が一もない強い競馬ができる。足立さん、プレッシャー凄いでしょうね」
「一番人気単勝一三〇円ですからねぇ。とばしたらヤジがとびますよこれは」
「君が乗るはずだったマッケンオーは九番人気まで落ちてるけどね。前走三番人気で好走したのに」
「ホント当たりがきついっすね!?」
それほどまでに騎乗停止とは重いのだ。
「あの、勉強不足なのは自覚してるんですけど、ダービーってそんなに重要なレースなんですか?」
石田君が恥ずかしそうに俺のことを真っすぐ見つめて尋ねてくる。俺はビールの缶を煽り、中身が空なのを思い出すとぐしゃりとアルミ缶を握りつぶして、彼の言葉に答える。
「わからないことをわからないとハッキリ言えることは重要なことだ。どれ、少し授業をしようか。なにせ、あと三〇分近くも時間があるからね」
むくりとパイプ椅子から立ち上がり、ルームの壁際に備品として放置されているキャスター付きホワイトボードを石田君たちの見やすい位置に動かし、黒い水性マーカーのキャップを外す。流れるようにホワイトボードの左上に東京優駿日本ダービーと記入し、石田君たちの方へ向き直る。
「日本の競馬はダービーに始まり、そしてダービーで終わる。競馬に携わる者ならば一度は耳にする言葉だ。この言葉の通り、騎手・調教師・馬主、彼ら全てはこのレースに勝つことを誉に思っている。そこにいる新田騎手もそうだ、ですよね?」
「無論です」
「では、ダービーとはなにか。日本ダービー、これは副称であり、正式に呼ぶ場合には東京優駿と呼称する。書いて字の如く、東京競馬場で行われる優駿決定戦、その年度の若駒代表を決める戦いだと言っても過言ではない」
ここで一呼吸。
「元々、ダービーとはイギリス競馬を参考にした際に定着したものだ。このような競走は世界の競馬で多く見られ、重要なレースとして区分される。故に、このダービーを模したレースの距離2400メートルを特別にクラシックディスタンスと呼ぶ。もっとも、アメリカでは違うんだがね。石田君、何故かわかるかな?」
「えっ!? ……距離が違うから、とか」
「イエス、そのとおり! 我々や欧州のクラシックディスタンスは一マイル半、つまり2400メートルだが、アメリカでは九ハロンや十ハロンがクラシックディスタンスと呼ばれる。それはクラシックで走る距離が違うから。ほむらちゃん、ここで言うクラシックとはなにかわかっているね?」
「もちろんです! クラシックとは競走馬の三歳限定競走のことです!」
「グッド! 付け加えるならば繁殖能力のある馬のことを指すので騙馬は含まないことが多い。さて、話を戻そう。何故、東京優駿がその年度の若駒を決める戦いと言われているか、三人ともわかるかな?」
俺の問いに、全員が首をかしげる。新田騎手は傾げちゃダメでしょうよ。
ジト目で新田騎手を見つめていると、露骨に目を逸らしたので、
「はい、新田騎手」
「ええっ……わかんないですよ」
指名するとすぐに解答を投げ出した。あとで天王寺調教師にチクっとこ。
「音花ちゃん、わかるかな? ヒントを出すなら東京優駿は五月最終週に行われるってのがミソだね」
「……! わかりました、翌週から新馬戦が始まる!」
「ザッツライト! そのとおり。日本ダービーを境にして競馬の年度が変わるってのはそういうことなんだね」
ここで新しいビールを一口。大塚さんがあっと叫ぶが気にしない。
「では本題、どうして日本ダービーが重要なレースと言われているのか」
俺を除く全員が俺に視線を向け、ゴクリと息を呑む。
彼らの視線を背中に受けながら俺はホワイトボードにデカデカとクエスチョンマークを書き込む。
「わかんないんだな、これが」
俺の発言に全員がコントのように椅子から崩れ落ちる。ノリがいいね君たち。
「何の回答にもなってないじゃないですか!」
「そうなんだよねぇ。きっと答えなんてないんだよ」
満面の笑みを浮かべ、俺はマーカーにキャップをハメてホワイトボードの受け部分に転がす。
「みんながダービーで勝ちたいと願ったから、このレースに価値が生まれたんだ」
神妙な顔つきをした俺に全員が黙りこむ。
「ある人は言った。一度勝てば、もう一度勝ちたくなる。それがダービー。きっと東京レース場のゲートが開き、ウイニングポストを越える、そして歓声に包まれて名前を呼ばれたとき、ダービーに込められた勝負と誇りの意味が分かるんじゃないかな」
そこまでいって、俺は音花ちゃん、ほむらちゃん、石田君に向き直って、
「だから教えてくれるかい? 君たちがダービーを勝ったときはどんな気持ちだったかを、さ」
真剣な俺のまなざしに、三人はゆっくりと頷く。競馬の楽しみがまた一つ増えたね。
暖かい雰囲気になったところで、新田騎手がぼそりと一言。
「その言葉を言った人、ダービー六回勝ってますけどね……」
それはそう。
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