鈴鹿は便利屋
「え!? あのお店に行ったんですか!?」
「え、ええ。社長に連れられてね」
ズルいズルいと吠えるのは大塚さん。あのまま船に直行して定期船で帰島し、その足で事務所に戻ってきたのだ。
尾根さんが犬たちを可愛がりながらおやつを与えていると、大塚さんが会話の流れで飯屋に食事に行ったことを知ってしまった。俺が一度だけ連れて行ったことがあるが、それ以降は臨時休業ばかりで一度も行けていないらしい。ノリで休むからな、あそこの店は。
「そんなに行きたいならマスターに頼めば? 飯屋と月一で料理の勉強会してるよ」
喫茶店のマスターなのになんでも作れる理由はこれだ。アイツと違って材料の制限は大きいがマスターの料理の腕は劣らないからな。
かくいう俺も一度だけ試食係としてお呼ばれし、それはもういい目を見させてもらった。
「ズルいです! いったい何を食べたんですか!?」
「ストーフレーだったね。ベルギー料理さ」
通称ごろごろ肉の黒ビール煮。仄かな苦みが米の消費を助ける御馳走だった。桜花牛の質と料理人の腕が良かったのが要因だろう。
「た、食べたかった……」
事務所の床に崩れ落ちる大塚さん。犬たちが頭に擦り寄ってぐりぐりしている。
「今度連れて行くから、元気出してよ」
「絶対ですよ」
目に炎を宿しながら俺に問う大塚さん。怖いって。事務員の子たちもビビってるし。
そんな雑談を続けていると市古さんが事務所に入ってきた。市古さんは圧倒的女子率に一瞬怯んだがすぐに俺に要件を伝える。
その内容は来週に控えたオウカファーストの東京新聞杯にて、一口馬主招待で当選した人が参加が不可能になってしまったので代理出席出来るかの確認だった。市古さんはその時期にはもうサードの遠征にかかりきりになり、代わりにクラブの副会長がファーストの応援に行くことになっていた。副会長は競馬場に出向いたことのない経理担当なので、招待された一口馬主の方をこの道ウン十年のベテラン馬主に頼むことで口取り式の段取りのフォローをしてもらおうとしていたとのこと。
ところが、招待した方が都合により辞退したため別の方を招待することになる。お察しの通り、最悪の展開である連絡が取れた代わりの馬主側も初心者のパターンになってしまったので俺が副会長の補助で競馬場に同行してくれないかってのが市古さんのお願いだ。
「別にいいけど」
「いや、助かります。アメリカにスタッフも複数人連れていくので人手が足りなくて」
「サンタアニタと弥生とチューリップが同じ週だからねぇ……。クラブの運営人員をもう少し増やしたほうがいいかもしれないね」
「来年度から新卒は来るんですが、欲しいのは即戦力なんですよねぇ……」
事務所内に市古さんの疲弊した嘆息が広がる。中途採用冷遇する癖に高学歴で即戦力求めるワンマン中堅会社みたいなこと言ってるのが草臥れた中間管理職サラリーマンで面白いな。
「俺でよかったらいつでも動くから何でも言ってね」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
俺に頭を下げてバタバタと事務所から出ていく市古さん。本当に忙しそうだ。
「そんなことになりました」
大塚さんに顔を向けながら告げる。
「承知しました。スケジュールを調節しておきます。
最も社長は業務から外れているのでほぼフリーですが」
「幼駒の育成も人員が育ってるから俺じゃなくてもいいしね」
ぶっちゃけ牧場運営が習熟してきた今、俺は庭先取引を希望する人の相手が一番の仕事だ。人手の足りないところにヘルプに入るので便利屋ともいう。
「正直、ディアが大きくなるまでは奴の相手だけしてくれれば牧場の皆は納得するわよ」
アイツは何であんな暴れん坊になっちゃったんだろうね?
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