夏の日常と犬来る
「気持ちいいかー?」
レジェンが軽く嘶いて返事をする。どうやら心地よいようだ。
夜半の企画書襲撃事件から時は過ぎ、七月のクソ暑い中で牧場にいる馬全頭の水洗いリレーを従業員一同で行っている最中だ。
繁殖牝馬八頭、その仔馬十六頭、競走馬のレジェンとレアシンジュが二頭の計二十八頭を洗わなければいけないので結構大変だ。洗うと言っても水をかけるだけじゃなくて蹄の掃除もしないといけないし、水切りもしないとならないので迅速に終わらせるには人の手が必須なのだ。
「社長、フィンキーが逃げたんで追っかけてください!」
「よしきた!」
妻橋さんにシャワーホースを投げ渡して放牧地の中に逃げたフィンキーを追いかける。
フィンキーってのは繁殖牝馬のカンノンダッシュから今年生まれた仔馬だ、やんちゃ坊主でひたすらに駆けまわるのが好きなくせにシャワーが嫌いな問題児。
俺に追い掛け回されるのを遊びと思っているらしく、しばらくチェイスすると疲れて大人しくなるのでその隙にシャワーまで連れていく。まだまだ仔馬だ。
そうして馬たちを洗い終えると今度は牧場の修繕作業だ。
蹴り癖のある馬や柵で身体を掻く馬がいるから補修は日常茶飯事ってもんだ。
「柴田さん、もうちょい下げですな」
「了解でーす」
今日は柴田さんと協力して三本の横柵を修繕した。一本三千円ぐらいするんだよな横柵。
そうこうしているとお昼になる、これが夏場の日常だ。
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「お昼ご飯だよー」
「社長はどれにしますか? 私はチキン南蛮ですけど」
「んー! 高菜しかのこってなーい!」
二人きりなのに大塚さんが選ぶと一択でしょー。
しょうがなく高菜弁当を取り、いただきますと言って食べ始める。おいしい。
「そういえば、今日は山田さんはどちらに?」
「あー、確か東京で案件のあいさつ回りって言ってたかな。配信成功させるために全力だしてきますって言ってたよ」
「山田さんの全力って引かれるのでは?」
「流石に競馬バカ炸裂はしないでしょ…。しないよね?」
私に聞かれても…、と不安げな表情で箸を止める大塚さん。
わかる、わかるよ。仕事ができることとアホを晒すのは両立するからね。
「とにかく、暴走しないことだけ祈りましょう」
「そうだね…」
お通夜みたいな空気になっていると事務所の引き戸が開いた。
尾根さんだ。
「いるわね」
「いるわよ」
黙って尾根さんが俺にデコピンする。
「沙也加、商工会のおじさん来てるわよ。来週の見学ツアーの時にやる出店の準備の相談がしたいんだって」
「ああ、そうでした。私、商店街に打ち合わせ行ってきますね。多分遅くなるので直帰します」
「あいわかったよ。商店街の皆によろしく」
大塚さんは残っていたチキン南蛮を急いで食べきると荷物をまとめて外に出ていった。
その後ろ姿を眺めていると尾根さんが、
「あらあら、沙也加が隣に居なくて寂しいのぉ?」
煽るように言ってきやがったので。
「歳考えなよ」
煽り返す。
「アンタとタメでしょうが!」
強烈なビンタ。
煽るくせに煽られたら手を上げるのは酷いと思います。
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お昼休みも終わり、午後からは牧場奥の森林伐採作業だ。
夏が始まる少し前から、妻橋さんを筆頭に半数が馬の様子を見つつ、残りのメンバーでチェーンソーや鉈で徐々に切り開いてきたのだ。あまり森が近いとやぶ蚊が馬を刺して感染症にかかったりするからな。
「たおるっぞぉー」
「うえーい」
厩務員はわりと若い人が多いので結構なスピードでバンバン切り倒している。無論、安全には最大限に配慮した上でな。
スポーツドリンクを飲んだり日陰で休憩しながら作業を続けていると、厩務員たちがにわかに騒ぎ出した。
「どうした?」
不審に思った柴田さんが厩務員の一人に聞く。
「いや、柴田さん。この子たちが…」
俺と柴田さんが厩務員の指を差したほうを見ると、そこには三匹の子犬がいた。
「おや、可愛らしい」
「野生の子犬ですかね、親が近くにいると思いますが」
手分けして辺りを探してみると、そこには既に亡くなっている成犬の姿が。
「あー、産んだはいいが何らかの原因で母犬が死んだって感じみたいですね。で、大きな音が聞こえたから子犬たちが揃って俺らのほうに来たってことでしょう」
「うーん、生後十日から二十日って感じかな? 生まれたてってこともないみたいだし。誰か尾根さんに状況説明して連れていくって伝えてくれる?」
一番若い厩務員が分かりましたと言って牧場のほうへ駆けていった。
その間、残された俺たちは仕事をここまでにして母犬を埋める準備を始める。
「そのままにすると病気の元になるからね。皆あとはよろしく」
各々が了承の返事をして、俺が一匹、柴田さんが二匹抱えて牧場の診療所に向かう。
「それにしても犬が森の中にいるんですね」
「どっからきたんだろうねー」
この島もいきなり生えてきたから生態系なんて分かったもんじゃないので『最初からいた』ってなってんのかもしれないけど。
キャウキャウ吠えながら俺の腕から逃れようとする子犬を抑えつつ、牧場敷地内の診療所に辿り着いた。
開いているシャッターから診察室に入ると尾根さんが既に待機していた。連絡を頼んでいた厩務員の彼はもういないようだ、妻橋さんたちにも連絡しに行ってくれたのだろうか。
「いらっしゃい、それが件の子犬ね」
「かわいいでしょ」
「狂犬病のワクチン打つまで可愛くないわ」
注射器をピシピシと叩いて空気を抜いて、診察台に固定された子犬に針を刺す。
キャインキャインと吠えて押さえている俺の手の中で暴れるが、尾根さんは無視して注射器の中のワクチンを注入し終える。
そのままクルリと柴田さんの腕の中の二匹を見やり。
「次はアンタたちよ」
「もう悪役のそれじゃん」
震える子犬を胸に抱き、頭をなでる。
諦めたのか無抵抗のまま注射針を刺される子犬たちが少し不憫だ。必要なことなんだけどね。
「よし終わり。まだ固形物が食べられないだろうから、さっさと子犬用のミルクを買ってきなさい。ここに一缶だけあるけど、すぐに無くなるわよ」
「雑貨屋にあるかな…。いや島でペット飼ってる家庭はないから置いてないよな。
よし、船を出すか。柴田さん、買い出しの連絡回してくれます?」
「了解です」
桜花島では船を持っているのが俺だけなので、臨時で買い出しに行くときは島のみんなに連絡を回してまとまっていったり代理で買ってくることが多い。
食料品は島に店舗があるし、雑貨屋もそこそこ大きな店なので滅多にそんなことはないので、定期船で事足りちゃうんだけどね。
とにかく、あの母犬から命を預かったんだ。全力で育てないとね。
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