名伯楽の来島

 桜花牧場に激しく何かを殴打する音が響く。

 スパァン! スパァン! と軽快なヒット音を出しているのは牧場のたった一人の事務員である大塚。事務所近くの大樹に吊るされたサンドバッグを全力で蹴り抜いているのだ。

 それを遠巻きで眺める妻橋、柴田、山田の三人。有り体に言ってブチ切れている大塚にビビっている。


「過去一キレてんなー」


 顔を引きつりながらも呑気な声で柴田が言う。


「どうしましょう、僕は怖すぎて近づきたくないです」


 山田が震えながら呟く。


「俺もだよ」

 

「私もです」


 三人の意見は完全に一致しているようだ。

 すると、腰抜け三人組の背後から声がかかった。


「皆さんどうなされたんです?」


「新田騎手」


 それは新田騎手。彼は東京優駿に出走する予定はないので鈴鹿がVR装置を使うことを許可していたのだ。

 三人に話しかけた新田が音のするほうへ視線を向けると一瞬で顔が凍り付く。


「なんです、アレ」


 もっともな疑問である。


「話せば長いんですが。簡単に言うと社長がやらかしまして」


「あー…、得意技ですか」


「新田騎手も慣れてきましたね」


「鈴鹿オーナーを自分の物差しで測ってはいけないと理解しましたから」


「ちげぇねぇ」


 ははは、と四人分の乾いた笑いが響く。


「で? 今回のやらかしはどのような?」


「仔馬の取引で、初産の購入権が契約に含まれていたのを誰にも言ってなかったんです」


「ほう、それぐらいなら別に良いのでは? 即日購入って訳ではないですよね」


「それが、相手がその」


「? あ、待ってください。凄く嫌な予感がします」


「イギリスの王室なんです…」


 言葉で言い表せない微妙な表情で蹴りを入れ続ける大塚を新田は見やる。

 彼女の気持ちが新田は分かる気がした。





ーーーーーーーーーーーーーー



 蹴りを浴びせ続けてスッキリしたのか笑顔で汗を拭う大塚。


「続きは社長にしましょう」


 否、怒りが煮詰まっただけのようだ。

 それを感じ取ったのか山田がゴホンと咳払いをして。


「ともかく、旅館の手配は済ませました。現状我々ができることはないですね」


「通訳に同行してもらえるらしい。お客様への対応はウェスコッティの戦績に詳しい山田君に対応してもらう」


「了解しました」


「大塚さんは我々が案内している間、外務省の方に購入された場合の対応の方法を聞いておいておくれ。

 普通に輸送するだけなら我々だけでも対処できるが、相手が相手だ。特殊な輸送になるかもしれない」


「わかりました」


「柴田君、もしかしたら他の仔馬も見たいというかも知れないから、他の仔達も従業員総出で普段以上に綺麗にしておいてくれ」


「うっす!」


「ついでに新田騎手、お客様がVR装置を見たいと言ったときにデモンストレーションをお願いしてもいいかな?」


「ええ、お世話になってますからね。お任せください」


 そこまで言い終わると、妻橋はふーっ、と息を吐き。


「当座の対処はこれぐらいですかね。後は場当たり的なフォローをするしかないです」


「王室関係者がいきなり来ますって言われてもどうすりゃいいかわかんないっすよね」


 ゲラゲラと、しかしいつもより力なく柴田は笑う。


「せっかくだから仔馬全部買ってくれるといいんですけどね。赤字が一気に解消できます」


「え、桜花牧場って赤字なんですか?」


 新田が驚きを言葉で表す。


「そうですよ、六月の頭で赤字は二億六千万に届きます」


 極めて冷静に大塚が言う。


「におっ!?」


「まぁまぁ、昨年と今年の種付け料がペイできてないですから。社長が広告塔になってくれてるおかげでこの牧場から馬を買いたいって言ってくれてる方もいらっしゃいますし」


 とんでもない額を聞いて動揺する新田に妻橋がフォローを入れる。

 資金プールがあるのを事前に聞いているので牧場関係者は動揺することはない。


「あー、そういえば渡辺オーナーも鈴鹿社長と馬を見せてもらう約束したって言ってましたね」


「そういえば新田騎手のお手馬に渡辺さんの馬がいましたね」


「若いころからお世話になってます。去年初めてオープン戦に乗って大喜びしてましたが重賞には届かなかったので、桜花牧場の馬なら重賞狙えるかもって考えなのかもしれませんね」


「そうなんですよね、普通はオープン乗っただけで喜ぶのが普通なんですよね…」


 静寂。

 改めてグリゼルダレジェンと鈴鹿のトンデモっぷりに感じるものがあるようだ。





ーーーーーーーーーーーーーーーー




『こんにちは山田さん! 素晴らしい島だねここは!』


『ありがとうございます。世界の名伯楽であるウィル・アムスさんに褒めていただけると自信になります』


『HAHAHA! 謙虚だね日本人は!』


『国民性ですので』


 肩をバンバンと叩きながら豪快に挨拶をしたのはウィル・アムス。

 ウェスコッティをイギリスのヨーク競馬場で行われたヨークシャーオークスで勝利に導いた凄腕の調教師であり、名伯楽の一人である。

 

『それで? 女王陛下の臣下はどこかな?』


『あちらの放牧場です』


 牧場の奥手にある放牧地を手で示しながら山田は移動を促す。

 ウィルは笑顔でそちらへ駆け出し、聞き役に徹していた外務省の職員が慌てて彼を追いかける。


「まったく、気持ちはわかりますけど少々はしゃぎすぎでは?」


 牧場の人間が聞いていたら信じられないものを見る目で山田を見たであろう発言を残して、彼もウィルを追う。


 遅れて放牧地についた山田は柵越しでにらめっこをするウィルと仔馬を見つけた。


「どうしたんですかアレ」


「さぁ…? 彼と仔馬の目が合った瞬間にお互い止まっちゃって」


 山田は異常事態が起こった原因を職員に聞いたが分からないらしい。

 仔馬はモウイチドノコイの38だ。

 五分、十分。いつまでたっても動かないので山田は思い切って声をかける。


『ウィルさん、その子がなにか?』


『この子買い手は?』


『いえ、まだ庭先取引はウィルさんたち以外はすべて断っているので』


『なるほど…。ミスター鈴鹿と連絡が取れるかい?』


『ええ、少々お待ちを』


 少し離れたところで山田はスマートフォンを取り出し、羅田に電話をかけた。

 四コールほどで繋がり鈴鹿に代わってくれと告げる。

 そのまま数分待って電話口から鈴鹿の声が聞こえた。


「なんだい山田君」


「陛下の代理人であるウィルさんが話したいことがあるとのことで」


 代わりますと言いつつスマートフォンをウィルに差し出す。

 山田と外務省の職員は頭にクエスチョンマークを浮かべた。


『こんにちはミスター。ええ、G1を連闘とのことで。もちろん応援させていただきますよ。

 ええ、実はまだ彼女の仔は見てないんですがね、その前に気になる子がいましてね。

 ……、お見事ですな。そうです芦毛です。はい。

 ……、分かりました。彼に聞いてみます。

 山田さん! 彼女はモウイチドノコイの38ですか?』


『そうです』


『どうもありがとう。

 …間違いないみたいです。彼女が欲しいのですがいくらになりますか?

 はい、はいはい。焦らしますねミスター。私がお墨付きをあげてもいい、彼女は走るよ。

 なるほど、はい。一年後ですね? わかりました。お願いします』


 会話が終わったウィルが山田にスマートフォンを返す。


『どうなされたんです?』


『一目ぼれしてね、鈴鹿さんに購入したいとお願いしたんだ』


『あぁ、なるほど。ウィルさんの目には走ると?』


『間違いないね、彼女は強くなる。私のプライドにかけよう。

 けどもミスターにはフラれてね、彼女の仔以外は来年の庭先取引まで売らないと決めているそうでね。時期が来たら飛んでくると約束したんだ』


 名伯楽の目にはモウイチドノコイの38は名馬に映ったようだ。


『それはなによりです。高値で買ってくださいね』


 山田が冗談めかして言う。


『もちろん、陛下に日本円で二億は出していいと進言するよ。約束だ』


 突然の大金話に山田と職員はおもわず吹き出したのだった。

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