幸運な名馬

「遠藤さん、処置が終わりました」


「ほ、本当ですか!? 本当に大丈夫なんですね!?」


「ええ、事前にお伝えした通り競走馬としてはもう走ることはできませんが命に危険はもうないですね」


 よかった、と地面に崩れ落ちて大泣きする遠藤さん。その背中を擦りながら調教師さんも涙している。いい馬主さんにアクリームボスは恵まれたんだな。


「それでこれからのお話をしたいんですが…。後ほどにしましょうか?」


「いえ、大丈夫です」


 遠藤さんはハンカチで涙を拭いて立ち上がる。俺は椅子にどうぞと言い、プレハブ小屋のテーブルを挟んで席に着いた。


「まず、治療費ですが…」


「いくらでも払いましょう」


 苦笑い、この人のこと俺好きだわ。


「本来なら量産されていない試薬なので高額です。ですが…」


 領収書として出した紙には大体二千万近い金額が書かれていたが、俺はそれを縦一直線に裂く。


「ちょ、ちょっと!?」


 調教師さんが動揺するがお構いなしだ。


「こちらとしては再生治療は前例が無く、語弊を恐れないでいうと患者を欲している状態でした。つまり、渡りに船だったわけですね。故に治療費は私が負担しましょう」


「よろしいので?」


「構いませんよ、それに貴方とアクリームボスの愛に値段をつけるのは無粋と私は思いまして」


 ニッコリ、笑顔で言う。

 遠藤さんはポカンとした後、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。調教師の方も微笑ましそうにそれを眺める。 


「ですが、流石に治療後にハイおかえりくださいとは出来ないのでまともに歩行回復するまでの数週間はこちらの牧場で過ごしていただきます。その預託料は申し訳ないですが頂きます」


「当然ですな、よろしくお願いします」


 大塚さんに作ってもらっていた契約書にサインをしてもらい、写しを渡す。 


「お二人はお食事はいかがされます? もうこの時間なので旅館の部屋は押さえてますが」


 現在二十三時前。フェブラリーステークスが十六時前に終わり、そのまま五時間近く対応に追われて手術に移ったから遠藤さんたちは空腹も限界のはずだ。

 

「バタバタしていて何も考えていなかったな…。明日の朝には麻酔が切れているので?」


「ええ、間違いなく。あと数時間したら起きるでしょうけど…。明日の朝のほうがよろしいかと」


「では遠慮なく旅館に宿泊させていただきましょう。大戸見さんもよろしいですね?」


「ええ、構いません」


 次の行動も決定したので山田君に二人を旅館まで送ってもらう。

 俺と厩務員のみんなは徹夜でアクリームボスの術後経過の見守りだ。


 それから数時間後、診療所のガレージゾーンで寝藁を敷いて横になっていたアクリームボスが目覚めたと連絡があり全員で急行。

 到着したときには既に起立しているアクリームボスが。


「手術完了ね」


 欠伸を噛み殺しながら尾根さんが言う。


「いやはや、とんでもない薬ですな」


「まったくです。この牧場にいると今までの常識が覆されますよ」


 妻橋さんと柴田さんが笑う。


 本当に生きていてくれてよかった。

 俺が近づくとアクリームボスは舌で俺の顔を嘗め回す。


「うわっぷ」


「誰が助けてくれたか本能でわかってるのね。賢い子だわ」


「あ、俺は旅館に連絡入れてきます」


「私は樫棟厩舎の準備をしてきますね」


 歩様もおかしくないので入厩の準備のためにみんなが一斉に動き出した。

 とりあえず、誰も悲しまない結果になってよかったよかった。




ーーーーーーーーーーーーー



 

 翌朝、遠藤さんと大戸見調教師さんが牧場にやってきてアクリームボスと対面。元気な姿を見てまたしても大号泣。愛されてるなぁ。


 無事を確認した二人が牧場内が見てみたいと言い出したので快諾し、厩舎、ターフ、温泉、VR騎乗装置、診療所などなどをお見せした。

 VR騎乗装置の「夢のスターホースに乗れる君」に大戸見調教師は大興奮、二十年前はジョッキーだったらしく一度乗ってみたかったとのこと。

 せっかくなので二人に乗ってみるか聞いたところ、もちろん乗りたいと即答。二時間近くここで遊んだ。

 そのあとは山田君に送迎を頼んで二人は商店街の観光に送り出した。

 二人はそのまま帰宅予定なので牧場には昨日から失われていた日常がやっと戻ってきた感覚になる。


 アクリームボスはここで治療した後に北海道のスタリオンステーションで種牡馬入りする予定だ。

 ダートのG1二勝馬だ、そこそこの種付け料になるだろうな。


「社長」


「尾根さん、なにかありましたか?」


「問題ってわけじゃないんだけどね、人手が足りないわ。今回の件で思い知ったけど診療所には獣看護師が二人は欲しいし、事務も広報もこの一件が広がれば手が足りなくなるわ。人員補充をお願い」


「わかりました、なんとかしましょう」


 一つ解決すれば新たな問題が、か。

 経営って大変だわ。







ーーーーーーーーーーーー




 ここは桜花島の名所、喫茶スターホース。

 桜花島アーケードの中でも立地に恵まれている場所に建つレトロな雰囲気を感じさせるこの店は島民の食堂としてもよく使われている。

 日が落ちる十八時過ぎ、いつもは仕事終わりに食事をする人々で賑わうスターホースで重みのある喫茶店のドアがゆっくりと開かれた。今日は空いているようである。

 

「こんばんわー」


 ドアから現れたのは桜花牧場事務員の大塚。

 料理が苦手な彼女はこの喫茶店で食事をして帰るのが日課である。


「いらっしゃい。いつものコーヒーでいいかい」


「うん、お願いします。ご飯はナポリタンで!」


 あいよ、とマスターが返事をし厨房へと消える。


「沙也加ちゃんはもう上がりかい?」


 銀器の職人である中年の男性が話しかけてきた。大塚は男性が家庭があるのに何故一人で喫茶店で食事をしているのかを疑問に思いつつも「そうです」と返す。


「この後、桜花商工会の打ち合わせがあるんですよ」


 店の奥のテーブルを拭いていたウェイトレスが大塚の疑問に答えるように言った。

 なるほど、もうすぐ三月だ。三月頭には博多の駅前広場で桜花島工芸品の市が行われる、それの打ち合わせなのだろう。


「社長が大型船と中央ふ頭の倉庫貸してくれるからホント助かってるよ。今度お礼に行くって沙也加ちゃんから言っといてくれないか?」


「社長は気にしないと思いますけどね」


 先にコーヒーを出してくれたマスターに笑顔で礼を言いつつ、コーヒーを啜る。

 この一杯のマンデリンのシナモンローストが彼女に一日の終わりを教えてくれる。

 ウェイトレスが片付けも終わり、銀器の職人と二人で談笑しているのを眺めながら厨房のマスターを見やる。

 ケチャップをフライパンに入れたのでもうすぐ出来あがりそうだ。

 彼女がそんなことを思っていると、スターホースの入り口のベルがカランカランと音を立てる。


「あー、疲れたわー。マスターいつものー」


 尾根だ。

 当たり前のようにカウンターに座っていた大塚の横の席に着く。


「お疲れ様です」


「ホントよもー、いきなりなんだから」


 尾根は先ほどまで牧場に詰めていた。

 原因は例の予後不良を止めるための治療の経過観察だ。

 日本において前例がないため尾根と鈴鹿が交代で異常が起こらないか予後観測するために絶対牧場に詰めている状況が三日続いていた。それも今日で終わり、牧場職員は通常の定時で帰れるようになった。

 疲労困憊の尾根は食事を作る気も起きないくらいに疲労しているので珍しく喫茶店に来たのだろう、大塚はそう決めつけた。そもそも、尾根も料理ができないと知っているのだが。


「お待ち」


 マスター謹製のナポリタンが大塚の前に置かれた。パスタにピーマンと玉ねぎが混ざりあい、焼けたケチャップの匂いが食欲をそそる。

 器用にクルクルとフォークで巻き、パスタを口に運ぶ。

 おいしいと、大塚を笑顔を浮かべていると店内全員の視線が自身に向いていることに彼女は気づいた。


「どうしました?」


「アンタは綺麗に食べるわよねー」


「ですねぇ」


 尾根とウェイトレスがクスクス笑う。言っている意味がよくわからない。


「社長がね、よくナポリタンを食べに来てくれるんだけど。それが汚くてねぇ」


「ホントに凄いんだよ。口元べったりで服にケチャップついててさ」


 マスターと銀器の職人も釣られて笑う。

 社長はこんなところでも恥をさらしているのかと、頭を抱えたくなりつつもフォークを動かす。


「アイツは本当にやってることは凄いのに、どっか子供じみてんだから…」


 笑いながら呆れるという難しいことをしながら、尾根はコーヒーを啜る。


「そういえば今回の牧場のお客さんも燥いでましたねぇ。桜花牧場の設備は凄いってめちゃくちゃ興奮してました」


「そうね、ぶっちゃけ最新鋭よね」


「全部ポケットマネーで済ませてますけどね…」


「アイツの資産が一番謎よ」


 マスターが用意してくれた生姜焼き定食を食べつつ、尾根が言う。


「部屋は競馬と馬産の本で埋まって足の踏み場がなかったですよ? 通帳とかどこに隠してるんでしょうね」


 銀器職人が口に含んでいた水を吹き出す。

 大塚は当たり前のように言ったが、周りの四人は各々動揺を隠せない。


「あ、アンタ! 社長の部屋に行ったことあるの!?」


「ありますよ、休暇中の緊急事態に対応してもらうために車で迎えに行ったりしますから」


 ああ、なんだ。と一同は肩を落とす。

 せっかく皆がかわいがっている娘のような存在に春が来たと思ったのに。全員の考えは一致した。


「? どうしたんです?」


 おかわりしたコーヒーを飲みながら大塚は小首をかしげる。

 マスターは、ははは、と笑って誤魔化しながら。そういえば鈴鹿社長のよく飲むコーヒーもマンダリンのシナモンローストだなと思った。


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