2歳牝馬王者決定戦前
決戦の十二月二週目。阪神ジュベナイルフィリーズ出走当日である。
羅田さんに相談されていた乗り替わりの件は浅井騎手続行で決定したそうだ。俺達には理解ができないターフに立つ側の苦悩や葛藤があるのだろうが、別にレジェンを乗りこなしてくれるのであれば俺は浅井騎手でも足立騎手でも構わないのだ。
そんなわけで阪神競馬場のスタンド二階、つまるところ馬主席で11レースを待っているのだ。
だが、そんな甘いわけもなく。
「貴方が桜花牧場の! 初めましてーーーーーー」
「おお、初めましてーーーーーーーー」
「こんにちは、初めましてーーーーーーー」
逃げた。
面倒くさい。
他の馬主と違って馬主同士のコネなんか必要としない俺は馬主席に座るメリットなんてなかったんだ。
そして逃げ込んだ先は東ウイングにあるフードプラザ。ここのカレーがうまいらしい。
早速購入し食す。うまい。ちなみにレストラン区域には回転寿司もあったりする。不思議だ。
「よぉ、アンちゃん」
「遅かったですね」
「そう言うなや、高速でも一時間半かかるんだぞ?」
今回のレース観戦に牧場の人間は同行していない。俺のテレビでやらかした尻拭きで忙しいからだ。公の場で三十八億も稼いだらそりゃ悪い虫寄ってくるよね、ごめんね。
で、俺一人で来ても寂しい。というより俺が襲われる可能性も否定できないので海老原のおっちゃんに同行を頼んだのだ。羅田さんから海老原のおっちゃんの今週出走予定の馬はいないって聞いてたしね。
「つか、いいもん食ってんじゃん」
「食べます? 奢りますよ」
「おーおー、御大臣御大臣」
海老原のおっちゃんに希望するかすうどんを買い与えて立食式のテーブルで立ち食いをする。
「で? やっぱ絡まれたのか」
「それはもう山のように」
「だろうな」
ゲラゲラ笑いながら俺に箸を向ける。行儀悪いぞ。
「超ツヨ馬のオーナーで? 福岡近海の島の地主で? レースをポンと当てちまうスーパー相馬眼の持ち主? げはは、盛りすぎだぜおまえさん」
「自覚はしてますよ」
テレビでのアレは確実にやりすぎだったと反省している。
しかし、あのパフォーマンスでJFの出走頭数はとりあえず上限まで埋まった。中央のお偉いさんからは山田君を通して感謝されたよ。
海老原のおっさんはズルズルと、かすうどんを啜り終わると、
「あんな大口叩いたんだ。負けたら針の筵だぜ?」
「覚悟の上ですよ、娘を何が起こるかわからないレースに出しているのに私が無傷なんてのは通りません」
「根性座ってんなぁ、お前さん」
食べたあとのゴミをキチンと捨ててパドックに移る。今は4レース目、まだまだ先は長い。
いっちょ賭けようかと思ったが海老原のおっちゃんは買えないのでやめておくことにする。
「どれよ」
「2番」
誰に聞かれているのかわからないので小声で簡潔に伝える。
「2番、2番っと…。矢代さんのとこのか」
「お知り合いで?」
「おう、美浦の中堅調教師だ。館岡一家によく騎乗依頼出してる人だよ」
「館岡…。吉騎手の先輩ですね? レジェンの新馬戦でバトルポストに乗ってた」
「そうそう、今日も息子の直治のお手馬がグリと当たるぞ」
「そうなんですか」
レジェンが勝つから興味がわかないな。
そう思っていると、海老原のおっちゃんがふーっ、と嘆息。
「お前さんな、競馬に絶対はないんだからよ、もうちょっとグリのことを心配するなりしてやったらどうだ?」
「心配はしてますよ、怪我をしないようにね。勝つか負けるかは悩む必要ないですから」
「慢心してるなぁ」
「王者はいつだって傲慢なものです」
ーーーーーーーーーーーーー
『それでは阪神ジュベナイルフィリーズのパドック解説、解説は箕輪さんです。よろしくお願いします』
『おねがいします』
『今年は粒ぞろいな面子と言う印象ですが、箕輪さん的にはどうでしょう?』
『いやぁ、これでそろってないなんて言ったら解説者下りろって言われちゃいますよ』
『そうですね、それではパドック見ていきます。1枠1番ハシスサノオ。454キロ増減はなしです』
『毛艶もあって仕上がってますね。事前情報では鞍上と折り合いもついたとのことなので強い走りに期待できますね』
『続いて1枠2番スピリタスフレイム。馬体重は482キロ、マイナス10キロです』
『ちょっとガレ気味ですね。好走はあまり期待できなさそうです』
『2枠3番、ーーーーーーーーーー』
………
『最後に8枠18番、グリゼルダレジェン。478キロ、プラス2キロです』
『いやぁ、もう馬体が輝いてますね。文句なし、優勝候補ですね。鞍上の浅井騎手がG1初挑戦でそこが少しだけ不安要素ってところでしょうか』
『箕輪さんありがとうございました。それでは返し馬の後に本馬場入場です。発走までしばらくお待ちください』
ーーーーーーーーーーーーーーー
「完璧な仕上がりだな」
「放牧中に完全回復させましたからね。無敵ですよ」
実際、仕上がりきっている。この状態のレジェンに勝てるのはもう馬ではない。
「おーおー、大口叩くもんだぜ」
「経営者として弱い部分は見せられませんから」
それもそうか、とゲラゲラ笑いながら海老原のおっちゃんは移動を開始する。
俺たちはゴール前のいいところで観戦するのだ。
「そういや、来年生まれる仔馬の売り先決まってんのか? セリか?」
「いえ、うちの子たちは全員庭先にしますよ。セリはないですね」
「ほー、じゃあよ、まともな馬主さんに今度紹介しとくわ。お前が気に入ったら売ってやってくれよ」
「それで自厩舎に入厩してもらうんでしょ?」
「がはは、お前さんのとこの牧場の馬なら軽くG1ぐらい取りそうなんでな。勝ち馬に乗らせてもらうぜ」
素直な発言に毒気も抜かれる。
そこにファンファーレが鳴り響いた。もうすぐ出走だ。
ーーーーーーーーーーー
「いける…、私とグリちゃんなら行ける…」
輪乗りの最中、浅井は右こぶしを心臓に押しつけながらボソボソ呟く。
グリゼルダレジェンはその様子にウンザリした表情だ。
「緊張しすぎですよ、もう少し落ち着いて」
グリゼルダレジェンの引綱を持って輪乗りに同行している羅田は半分呆れながら、微笑ましいなとも考えていた。
騎手上がりでない羅田には浅井の持つ緊張感はわからない。調教師とはパドックに送り出すまでが仕事だからだ。しかし、人としての苦悩は分かる。もし負けたら、しかも自身のせいで。そう思わずにはいられないのが人間なのだ。
「不安ならよい考え方がありますよ」
「え?」
「あなたがあなた自身を信じられないのなら、私の信じるグリゼルダレジェンを信じなさい。そして、グリゼルダレジェンの信じるオーナーを信じなさい。あの人は嘘は言いません、グリゼルダレジェンが勝てると言ったら勝てるのです。ほら、もう悩む理由がなくなった」
浅井は一瞬、ポカンとした後。クツクツと笑い出し。「なんですかそれ」と言った。
「気分は晴れましたか?」
「ええ、行ってきます。勝ちます」
既に14番まで収まった枠にグリゼルダレジェンに乗った浅井は進みだす。
その背中は先ほどまでの丸まったものではなかった。
阪神競馬場、距離1600メートル、マイル区分、右回り、馬場は良、第90回阪神ジュベナイルフィリーズ。出走。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます