尾根さんのお仕事

 十月頭。中山競馬場でスプリンターズステークスが開催されたが。ここで痛ましい事件が起こった。

 先頭を走っていたラブクイーンが経済コース(内埒すれすれのルート)を走行中に、補修しきれていなかった芝の窪みに足が取られてしまい転倒した。後ろとの差がない状態で勢いよく転倒したことで後続の二頭も巻き込まれて転倒。三頭が予後不良の判断を受けた中央競馬でもあまり見ない大惨事になった。

 そこで俺は思った。レジェンもこのような事態に巻き込まれるのではないかと。もし巻き込まれたとしてもアプリのアイテムがあれば救えるのではないかと!

 

 そう思いついた俺は、ミッション≪新馬戦を勝利する(マイル)≫≪G3を勝利する(マイル)≫をクリアしたときに支給された現ナマ、五億を持って牧場の敷地内に再起不能診療所(俺が命名)を建てた。

 再起不能診療所は平屋建て四十坪の建物だ。地下室に薬品等を保管する冷蔵ルームを設置してある。ここでいう薬品はアプリのショップで買える特別な力を持ったものだ。通常のものは地上階に別で保管してある。

 と、ここで問題。この診療所、誰が運用するでしょう? そうだね、尾根さんだね。


 つまり、


「前が見えねぇ」


「何をするにしても相談するのが大人だと思うんだけど?」


 担当者に確認せず勝手に診療所を建てたアホはボコボコにされるのである。 


「で? アタシとしては自分の城が出来たのは嬉しいけど何をするための施設なのよ、ここ」


「俺ってば海外の薬品会社と提携しててさ。その試薬とかを使って骨折して予後不良で薬殺される馬たちを助けられないかなって。

 あ、農水省から許可が下りてるよ。一般の動物病院には出回ってないだけ」


「獣医のアタシが聞いたことない製薬会社とのコネ持ってるアンタの人脈が不思議でならないわ…」


 そりゃそうだ、そんな会社ないもの。アプリの謎パワーで世界を捻じ曲げてるだけだもの。


「まあ、いいわ。設備の説明をしてちょうだい。薬の成分表と添付文書もあるんでしょうね?」


「ありますあります」




ーーーーーーーーーーーーー



 診療所には人が出入りするための玄関が存在せず、ガレージのシャッターのみが設置されたまるで車の修理工場のような作りになっている。


「広いわね」


「四十坪のうち三十坪を割いてるからね」


 シャッターを開けると馬の診療道具である超音波発生器や馬を繋ぎとめるための蹄洗ポールがドンと置いてある。ここは簡易的な治療を行うための場所である。

 そこを抜けてもう一つ大きな両開きの引き戸を開けると、外科手術室がお目見えだ。


「これは…!」


「すごいでしょ?」


 いつも斜に構えている尾根さんも、この恵まれた環境にお目目がキラキラ。

 いままで治療スペースがなくて外で無理矢理だったもんね、ごめんね。


「ここがあれば夏のクソ暑い中で汗だくで馬に注射しなくて済む…!」


 メッチャきつかったんですねホントすいません。


「手術室の奥のドアが試薬保管室になってます、普段は施錠してくださいね」


 これ鍵です、と保管室と書かれたシールを貼ったディンプル錠を渡す。

 

「俺と大塚さんがそれぞれ一本ずつ持っているので失くしたりしたら言ってください」


「了解よ。それじゃあ地下行きましょ」


 真新しい鍵を開けて階段を下りる。

 意外と段数が多い。下り終わると厳重注意のステッカーが貼られた扉が現れた。

 こちらには鍵がかかっていないので、ノブを回して中に入ると五坪程度の敷地にびっしりと薬品が詰められた棚がこちらを迎える。


「強烈な量ね。試薬だったら量産もされてないし高いでしょ? いくらかかったのよ」


 スッ、と右手の指を四本立てる。


「四千万!? とんでもないわね」


 ブンブン頭を振り否定する。


「四億です」


「は?」


「四億です」


「さようなら鈴鹿社長、アナタのことは忘れません。沙也加に殺されても化けて出ないでください」


 真顔でグッバイ宣言してくる尾根さんにポケットマネーだからと慌てて伝える。


「どっちにしてもアンタは馬鹿よ」


「言い返せない」


 馬鹿を見る目でこちらを見る尾根さん。しかし、


「でもね、馬のこと考えてここまで揃えるアンタはちょっとカッコいいわ」


「あれ? 惚れちゃった?」


「薬殺するわよ」


 ノータイムで殺害宣言は酷くないですか。


「ほらほら、アタシは薬の効果とかチェックするから仕事に戻りなさい」


「はーい、後よろしく」


 任せなさいの言葉を背中に受けて保管庫から退出する。

 意外と冷えたが尾根さん長時間居て大丈夫だろうか、後でまた様子を見に来よう。

 診療所から外に出ると十月だというのにムアっとした風が体を包む。

 もうすぐお昼だ。事務所でご飯食べよう。






ーーーーーーーーーーーー




 尾根静香にとって桜花牧場は理想の職場だ。

 仕事は忙しくないし、煩わしい上司への気遣いなんてのもまったくない。

 社長は変人だが器がデカくて多少口が悪くても気にも留めない。以前の職場とは大違いだ。

 そんな社長がいきなり診療所を牧場の敷地内に建てた。突然なんだと静香は思ったが先のレースで予後不良が三頭も出たのを見て心を痛めたらしい。

 鈴鹿社長は変人だが馬に関しては紳士だ。金に糸目はつけずどうにかして状況をいいほうに持っていこうとする。そして大体その皺寄せは事務員の大塚沙也加が受けることになるのがいつもの流れなのだが。

 そんな社長が診療所を建てた? しかもポケットマネーで? 厄ネタの匂いがプンプンする。正直逃げ出したい気分だ。

 しかし給料を貰っている以上、逃げるわけにもいかず話を聞いてみると。製薬会社の試薬を使っていいだのなんだの、お前の人脈はどうなっているんだと問い詰めたい。バカがアホをやらかした後に事務所で沙也加が頭抱えている理由が分かった気がすると、静香は額のシワを伸ばしながら思う。

 診療所の説明を受け社長を追い出した後、棚にある薬品を一つ一つ調べていく。ビンに貼られている薬品名と薬効を照らし合わせていざと言う時にすぐ使えるようにするためだ。だが、名前が蹄葉炎カルクナールだの骨折イタクナクナールだのふざけた名前が多いのは何なんだ。社長が和訳しやがったのか? 静香は再び頭を抱える。

 だが、そこに書いてある使用方法などが実現するのなら画期的なものだ。

 例えば骨折イタクナクナール、口に出したくない名前だが暫定としてこう呼ぶが、これは外科手術を行わなくても、レントゲンで骨折が確認されたら患部に注射してカルシウムによる疑似骨を形成し骨折した足を地面についても左程の痛みも感じなくなるものらしい。もっとも、そのあと別の薬を用いて治療するのが前提らしいが。

 他にも効果を聞いただけだと首を傾げたくなるとんでもない薬効の薬品ばかりだ。だが薬効を確かめるにも被検体がいないし、故意に怪我をさせるなんて論外だ。話半分で聞いておいて、この薬品を使うことがないことを祈ろう。静香はそう思うことにした。

 

(それにしても、惚れちゃった? か。

 惚れはしないけど向こう見ずで馬のために尽くせるその姿勢は尊敬してるわよ…)


 


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