焼サバソーメンはおいしい
山田君に羅田調教師へアポイントメントを取ってもらい、一週間後に栗東のトレーニングセンターに向けて出発した。
予定は桜花島から船で博多まで行き、車で滋賀の栗東まで移動した後にトレーニングセンターの競馬会館で宿泊する。そして翌日に羅田調教師と面会、そこで人となりを見てスターの預託を頼むかどうかを決める手はずになっている。
そんなわけで俺は野郎と二人きりでホテルに宿泊しているわけだ。
「いやぁ! 念願の競馬会館で宿泊できるなんて社長に雇われて良かった!」
安い忠誠心である。
休憩含めて九時間の運転をこなした後で元気溌剌なのは本当にここに泊まるのを楽しみにしていたんだろう。
「ああ、近くに憧れのトレセンがー!」
狂信者かこいつは。
「山田君、明日の打ち合わせをしたいんだが」
「明日の予定は羅田さんは午前中に私用があるとのことでその時間を観光に回したいと思います。午後二時には厩舎に戻っているとのことなので、余裕をもって午後三時頃に訪ねる予定です。あとは大塚さんからは近江牛のしぐれ煮、妻橋さんからは手作り最中のお土産要望が出ているので忘れないようにしないといけませんね」
馬のことになると発狂するけど仕事はできるんだよなぁ…。
だが重要なことを忘れている。
「焼鯖ソーメンを食べに行くのを忘れないでくれ」
ーーーーーーーーーー
「テキ(調教師の通称)、お戻りで?」
「あぁ、牡蛎山君か。この後に北海道で知り合ったオーナーと面通しがあるからね」
「例のハイテンションで馬に頬ずりしていたって人ですか…」
「うん…。正直相手にしたくないタイプだったんだが無い袖は振れないし、彼の上役がまともだと願うよ」
はあ、と羅田調教師は嘆息する。
羅田厩舎は崖っぷちである。今も上層部から勇退してはどうだとの打診を受けてきたところだ。しょうのないことである、トレセンの馬房は有限だ。八年もやってきて重賞馬を二頭しか出せていない羅田に馬房を振り分けたくないのは当然だし、周りの一線級の調教師たちからは職を辞して馬房を空けろと言う圧も感じ取っていた。
羅田は騎手上がりの調教師ではない。レースに出て積み上げた実績もなく、また調教助手として付いた厩舎もお世辞にも一流とは言えない所だった。
だが、自身の調教師としての腕は他の者と比べても遜色はないと自負している。ただ、良馬を回してもらえないだけなのだ。
(自身の厩舎の惨状を馬や他の調教師のせいにしてる時点で調教師失格なのかもしれないね)
皮肉じみた笑みが出る。
自分はいつだって懸命にやってきたが結果とは残酷だ。
今年から調教師に転身したG1ジョッキーは既に重賞を四つ取っている。九か月でダブルスコアだ。上層部からの今日の勇退の勧めで羅田はハッキリと自覚した。もう調教師としてのプライドは折れてしまっているのだと。
こんな自分に文句ひとつ言わずについてきてくれた調教助手の牡蛎山、厩務員の韮澤、ジョッキーの足立。彼らを路頭に迷わせないためにただ調教師としての職に縋りついているだけなのだと。
「新規の牧場なんですよね? 誰の手あかもついていないし、もしかしたら良馬を回してもらえるかも!」
頭絡(馬の顔につける馬装)を抱えた韮澤が嬉しそうに羅田と牡蛎山に近づく。
「そうだね。とにかく第一印象が大事だな」
「テキなら大丈夫ですよ。少なくとも海老原さんみたいに噛みつきそうな雰囲気感じませんから」
あはは、と牡蛎山と韮澤が笑う。
羅田からはその海老原が二人の背後に近づいているのが見えた。
じゃり、足元の音に気付いた二人が振り向いた刹那。
「誰が噛みくってぇ!?」
「「あだだだだだだ!」」
海老原のアイアンクローが二人を襲う。
ギリギリ締め上げられる顔に二人は悲鳴を上げた。
「まあまあ海老原さん。冗談ですから許してやってもらえませんか」
「羅田、お前が甘いからこの二人はつけあがるんだぞ」
手を離された瞬間に失礼しますと逃げる両名。確かに悪戯小僧のようだ。
憤慨した顔で二人を見送ると海老原は羅田に向き直る。
「で、今日も上層部に嫌味言われたのか?」
「別に嫌味ってわけじゃないですよ」
「似たようなもんだわ。毎週毎週しつこく席を渡せって言われてんだろ? 他人事だがむかつくぜ。」
「腕の良い調教師により多くの馬を見てもらいたいってのはおかしな話じゃないですから…」
「かーっ! いい子ちゃん過ぎて心配だぜ!」
羅田と海老原は同期である。故に少し気の弱い羅田を心配して手を貸してくれたりするのだ。
「ほんで? 俺のとこにも聞こえてきた羅田の一発逆転劇のお相手はまだ来てないのか?」
「一発逆転って…」
「違わないだろ? 新鋭で札付きじゃないオーナーブリーダーなんてレアだぞレア」
「それはそうですけど、たまたま北海道で出会っただけですから」
「たまたま? 出会っただけ? 何言ってやがる、そんな言葉で片付けるなよ。お前の腕は俺がよく知ってるんだ。これは競馬の神様がくれた運命なんだよ」
「運、命…」
「そうだ、だからチャンスの神様の前髪引きちぎってでも掴み取れよ。俺はずっとG1の舞台でお前のこと待ってんだからよ」
海老原は羅田の背中をバシンと叩くと自厩舎の方へ歩いていく。
彼はああみえて心配性だ。厩舎を畳むかもしれない自分を心配して様子を見に来てくれたのだろう、まったく頭が上がらないと羅田は感謝した。
腕時計を見ると十四時五十分。そろそろ到着してもおかしくないのだが、と考えていると。
「あ、いましたいました! 社長! 羅田調教師を発見しました!」
「山田君、馬が近くにいるから大声上げちゃ駄目だよ」
北海道で見た元気な若者とスーツを着崩した赤い眼鏡の男性が大声をあげながら羅田へと歩きよってくる。
よかった。社長さんはまともそうだ。
羅田はひとまず安心したのだった。
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