王室専用サロンにて

 久しぶりのサロン。


 緊張の面持ちのノワール。



 ――大丈夫。朗らかに穏やかに…。


 少し怯えた心を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸してからノックした。



 中から、元気よくスィートピーが出迎え、奥ではにこやかなヴィオラが待っていた。



 ――ああ…。ダメだ。緊張して顔がこわばる…。


 でも、笑わないとヴィオラに嫌な頃の自分を思い出させるだろう…。


 口もとはどうしてもゆるんでくれなかったが、瞳に親しみを精一杯込めた。



 自分が、ヴィオラにとって過去の不快な思い出の中の人物であること。

 それも彼女の死を招いたと言っても過言ではないほどの不愉快な人物であることは、あの日から何度も反芻はんすうし、自分の望みが叶うことはないと諦めたはずだった。

 だが、その事がこれほどに苦しいものかと思うほど、目の前のヴィオラは愛しく、自分にとって無くてはならない存在に思えた。



 大昔、喜んで嫁いできた十六歳の花嫁に自分がした残酷な仕打ちは、今は彼の中にじっとりと深く刻まれていた。

 あれは昔の、「自分ではない自分」がしたことで、自分がしたことではない。とはどうしても確信が持てなかった。


「記憶を消す」魔法を彼女にかけることができたらどんなによいかと、古書を読み漁りもした。


 おそらく、自分ならそれが出来るだろう。


 ただ、彼はそうしないことに決めた。





 そう決めたからには、彼女を無闇むやみに欲しがって怖がらせたりはしない。


 今はただ誠実に、彼女の幸せだけを願って大切な妹のように接するべきだ。




「ご無沙汰しております。ノワール殿下。お忙しいところお呼び立てしまして…。お元気でいらっしゃいましたか?」


 ヴィオラは、構えていたノワールが拍子抜けするほど朗らかに声をかけた。


「うん。ありがとう。」


 やっとの思いでそう答え、ノワールはまた、頭の中で忙しく考え始めた。



 そうだ。

 彼女は自分よりもずっと前から大昔の自分を知っていたんだ。


 わかっていたはずの事を、今やっと理解出来たような気がして、ノワールは少し混乱し始めた。


 ――私が、過去を思い出したことを伝えるべきだろうか…。


 だが、話してなんになる。

 わざわざ辛いことを思い出させて彼女を困らせるつもりか…。



 ヴィオラは、ノワールの顔色がスィートピーに聞いていた通りあまりよくないことに切なくなった。


 ――大国の王太子としての責務はきっととても重く、責任感の強いノワールは大変な思いをしているに違いない…。ああ、それにしてもお顔の色が悪いわ…。お疲れなのね…。



「殿下。どうぞこちらにお掛けください。今お茶をお淹れします。」


 窓辺の小さなまるいテーブルに座るように促され、静かに腰をかけると、そこから見える奥の部屋の大きな長机の上に正方形の布が広げてあるのを認めた。


 ――あれはなんだろう…。たくさんの紋章のように見えるが…。


 王女たちは二人で茶菓子とティーポットを持って来ながら、ノワールの視線が長机に向けられているのを見て微笑みあった。


「お兄様。あちらはお兄様への贈り物なんですよ。」

「殿下にお茶をお召し上がりいただいてから、ゆっくりご覧いただきますね。」


 スィートピーが話していたように、ノワールは顔色がよくないばかりか口数もずいぶん減っていた。

 以前は三人でいると、妹をからかったり、自分にも意地悪なことを言ったりして楽しそうに笑っていたが、今はとても疲れているようだ。


 それでも向けられる眼差しは優しく、五月に離宮で過ごした時と変わらぬ親しさを感じることができる。


 皆で美味しいお茶を飲み、ノワールの気持ちが少し落ち着いた頃、見計らったように妹が長机に案内した。


「これは、お兄様の執務室に飾っていただこうと思って。ヴィオラ様と二人だけで作りましたの。刺繍糸には魔除けを施してあります。どう?大作でしょう?私たち二人だけで作ったんですよ?」


 正方形の布の中央に今現在のノワールの紋章もんしょうが配置され、それを取り囲むように、生まれたときに決められた紋章。そして勲章くんしょうが与えられる度に少しずつ変化した紋章が正確に刺繍されていた。


「すごいな…。」

「かなり大きいのですが、飾っていただくことは出来ますか?これを額に入れてお届けしますので…。」

「うん。ありがとう。飾るよ…。二人が刺繍が好きなことは知っていたが…。ここまでの腕とは知らなかった。」

「この刺繍には二人であらゆる願いを込めましたの。貴重ですわよ。」

「うん。本当に貴重だ。」

 喜んでくれているのは間違いないが、やはり元気がない。

 二人の王女は両脇からノワールを見上げた。


「二十歳のお祝いに間に合わなくてごめんなさい。私の体調が調わなくて完成が遅れてしまったんです。」

「いや…。」


 自分の二十歳の誕生祭に、ヴィオラは体調が調わずに欠席したと言うことだったが、嫌な思い出のある城に来ない為に欠席したしたに違いないと思っていたノワールは、ヴィオラが申し訳なさそうに詫びるのを見て、説明のつかない複雑な切なさに顔を歪めた。


「あら!お兄様!感動してくださっているのね!」

「まぁ、嬉しいこと。」

 二人の王女は、ノワールがただ、感動して顔を歪めたのではないことはわかっていた。

 だが、自分達の前で顔を歪めるほど何かに追い詰められて疲弊しているノワールをなんとか楽しい気分にさせたかった。


 ノワールは妹から背中と腕にそっと手を添えられ、ヴィオラからも腕に手を添えられていることに気がつきながら、じっと眼を閉じ涙を堪えた。


「この作品には、お兄様の健康と幸せと、セヤの安寧と…あと…お仕事がうまく行くようにと、剣術がますます上達するようにと…。あとは…ダンスと…。それから…。」

 スィートピーは、とにかく二人で思いつく限りの願いを込めた為に、他にも何かあったはずと思いながらヴィオラを見た。

 ヴィオラは、スィートピーに軽く微笑んでからノワールを見上げた。


「私は、セヤ国とタラ国の末永い友好と、私たちがこれからもずっと親しくいられるように…。そう願いを込めました。」

「まぁヴィオラ様。わたくしそれは知りませんでしたわ。」

「ええ。勝手にごめんなさい。でも、どうしてもそうしたくて…。」


 妹達が話すのを、刺繍の隅々まで見ながら聞いていたノワールは、ヴィオラが先ほどから自分の腕に手を添えたままであることに気がつかないで欲しいと、身体をなるべく動かさぬようにヴィオラをゆっくりと見下ろした。

 ヴィオラは、手を添えたままノワールを見上げ、ノワールが喜んでいるかを見ていた。


 心配そうな優しい瞳は、「大丈夫ですか?」と問うているようだった。


 ノワールは、「今だけは、何もかも赦されたような気持ちになっても構わないのかもしれない。」と穏やかな幸せを感じた。


「ありがとう。」


 ヴィオラは、笑顔を見せたノワールににっこりと微笑むと、そっと手をはずした。




「お兄様、夏休みはお忙しい?ヴィオラ様がタラにご招待してくださったのだけれど。」


 ぶわと鳥肌が立つほど驚いた彼は、妹とヴィオラを交互に見た。


「もし、よろしければお二人でいらっしゃいませんか?母が是非にと申しておりますし、スィートピー様にルイを紹介したくて…。それと、もしお時間があれば…お二人に私の小さな庭をご案内したいと存じます。」




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