初めての夏休み

「お姉さまっ。明日は僕の番だよ?」

 姉が、鏡の前で侍女に髪を結い上げられるのをうっとりと眺めていたルイが、もう一度可愛らしく訴えた。


「ええ。ルイ。楽しみにしているわ。何をするか、もう決めた?」

 ヴィオラは、目の中に入れても痛くないほど可愛い弟に笑顔で答える。


 小さな王子は、姉の顔をのぞいたり、髪を結い上げる侍女を眺めたり、鏡に映る姉の顔が見られる位置まで移動したりしながら楽しそうに部屋をうろついている。


 ヴィオラも侍女達もそれを見て微笑んでいるが、先ほど、まだ三歳の小さな王子が、姉の部屋に入るなり

「僕だってお姉さまと二人だけで過ごしたいんだ。」

 と訴えたときには、皆で固まってしまった。



 夏休みにタラに帰ったヴィオラは、家族にも侍女にも甘やかされて過ごしていたが、ルイの事は自分がベタベタに甘やかしていた。


「お姉さまは僕だけのお姉さまだ。」

 と、口癖のように言うルイと、可愛い弟の口から飛び出すたどたどしい言葉の何もかもが嬉しいヴィオラは、毎日一緒に過ごしてはいた。


 だがルイは、今日は兄のルチェドラトが、誰にも邪魔されずにヴィオラと二人だけで一日過ごすつもりだと知り、「自分にもそんな日があっていいはずだ」と、姉に訴えに来たのだ。


 ヴィオラに、異論などあるはずがない。


 快く応じると、ルイは喜びながらも、あまりにもあっさり要求が通ったことで、かえって不安になったのか何度も念をおした。



 まだまだヨチヨチとした赤ちゃんだと思っていたルイは、この数ヶ月で、ずいぶんしっかりしていた。

 三歳って、こんなに話せるものかしら…。

 と思うほど意思を持って話をするし、会話が成立する。


「明日何をするかは、まだ考え中だけど、とにかくっ明日は僕の番だからね。楽しみにしててね。」

「わかったわ。ルイ。楽しみにしているわね。」


 時折、精一杯むむっとした様子で自分の権利を主張していたルイ王子は、どうやら明日のことは大丈夫そうだと納得したらしく、ヴィオラの膝に両腕を乗せ、満足げにふぅっとため息をついた。


 その姿がなんとも可愛くて、その場にいた全員がほわと笑う。


「さ、ルイ様。今日は私達と遊びましょう。ヴィオラ様にご挨拶を…。」

「うん。」

 ルイは、ヴィオラの頬にキスをするために背伸びした。

 ヴィオラが少し屈んで頬を差し出し、いつものように片手で弟の頬をぷにっと動かすと、ルイは、嬉しそうに「にかっ」と笑う。


「ルル!行くよ!」

 いつまでたっても小さな黒猫を連れて、一仕事終えた小さな王子は満足そうに部屋を出ていった。





 ヴィオラは、帰国日当日から「とにかくゆっくりしろ」と誰からも言われ、毎日のんびりと過ごしてみると、学園生活は想像していたよりもずっと楽しいものではあったが、やはり異国では常に気を張って過ごしていたのだと気づかされた。


 セヤの王宮での茶会から数ヶ月、ノワールはヴィオラを様々な場所に連れて行った。


 王都には何度行ったかわからないくらいで、お気に入りのお店もいくつか出来た。

 家族に食べさせたい焼き菓子も、今回お土産に持ち帰ってこれたし、兄から聞いていた紅茶の茶葉を量り売りする専門店で、茶葉をどっさり買い込んで来た。


 勉強は苦手だが、王太子や側近達に助けられ、時にはスィートピー王女にまで教わりながら試験も無事に高得点を取ることが出来た。

 兄に成績表を見せる約束になっていたので、必死で学び、疲れはてたところで待ちに待った夏休みが来たのだ。


 タラの空気を感じ、タラの景色を観ていると、心も身体ものびのびと自由になってい

 くのを感じている。


 夏休み期間の七月半ばから九月末まで、ずっとこんな生活をするわけにはいかないが、しばらくは思う存分のんびりしようと考えていた。




 帰国八日目の今日、ルチェドラトが「今日は一日一緒に過ごそう」と、予定をあけておいてくれたので、二人で庭園を散策しながら『バーモントの庭』まで歩き、昼食を食べた。

 今も兄と二人で『バーモントの庭』でお茶を飲みながら寛いだ午後を過ごしている。


「ヴィオ、学園はどう?困ってることはない?」

 少し会わない間に顔つきがグッと大人っぽくなっていたルチェドラトが、相変わらずの優しさで妹にたずねる。


 ――お兄様、少しお痩せになったかしら…。


 眼差しや、声色だけでなく、その全身から溢れ出す兄の懐かしい優しさを感じたヴィオラは、少し前までは、毎日こんな幸せに包まれていたのに、今までよく離れていられたものだと思った。


「お兄様…。」


 両親から、セヤへの留学の提案があった時、迷いはなかった。

 それでも、タラでの日々を手放す寂しさはずっとついて回った。



 ――お兄様の留学が終わって…やっとまた一緒に暮らせるはずだったのに。



「お兄様や、お母様、お父様、ルイやルル…。みんなに会いたくて…。時々寂しくなることはありますが、有難いことに、困っていることは何もないんです。それに…お兄様とのお手紙のやり取りのおかげで、寂しさもずいぶん和らぐので…。」

「そう…。」


 妹がタラを離れて数ヶ月、喪失感そうしつかんを埋めるように忙しい日々を送っていたルチェドラトは、

「大切な妹には、何不自由なく暮らしていて欲しい。」

 と願う気持ちと、

「自分と同じように、妹もまた自分達に会えない寂しさを感じていた。」

 ということに、ほのかな満足感を覚えながら、愛しげにヴィオラを見つめた。


「成人式のドレスはもう出来た?」

「まだですわ。」

「いつ出来るの?」

「来週には届くかと思います。」


 あまり、興味の無さそうな妹を見て、ルチェドラトは苦笑いした。


「それより、お兄様の式服は出来上がりました?どんなものになさったのですか?」


 自分のドレスより、兄の式服の話をしたがる妹がルチェドラトには不思議だった。


「ヴィオは、僕の服にはとても興味があるのに、自分の服にはあまり関心がないようだね。」

「そんなこともありませんが…。でもお兄様の式服に興味があるのは否定しませんわ。」


「母上が嘆いていたよ。成人式のドレスを決めないでセヤに行ってしまったんだってね。」


「まぁ…。そうだったかしら…。いえ、確か…。」


「うん。母上の成人式の時のドレスを直して貰いたいって言ったんだって?」

「ええ…。そう。そうでした。」


「新しいドレスを作るのが嫌なの?」


「そういうわけでは…。ただ、新しいドレスでなくても構わないというだけですわ…。その…、自分のドレスを選ぶ事に、あまりウキウキしないんです。それなら、お母様が時間をかけて選んだドレスを直して頂いた方が嬉しいと思いまして。」


「そうなのか…。でも、母上は二度と着ることがなくても成人式のドレスはそのまま取っておきたいそうだよ。」


「それは…。考えが足りませんでしたわ。」

 そうか…。と萎れた妹に、ルチェドラトは穏やかに続ける。


「うん…。考えが足りないとは思わないけど…。母上には理解出来ないんだ。女性なら誰でも新しいドレスを作ることが嬉しいに違いないし、自分のドレスを選びたがらない女性がいるなんて信じられないとおっしゃっていたから…。」


 母ほど大騒ぎするつもりはないが、この年頃の娘が、ドレスを作ることにこうも頓着しないのも珍しいと思うルチェドラトは、少し心配ではあった。


「私…。誰かのドレスを選んだり、どなたかが素敵なドレスを着ていらっしゃるのを観るのはとても好きなんですけれど…、自分のドレスは、マダムが私に似合うものを作ってくださるとわかっていますし、自分では特に希望もなくて…よくわからないんです。」

 ヴィオラは、正直に答えた。



 本当のところ、何年も前に兄が自分のドレスを一緒に考えてくれた時の、あのドレス以上にときめくドレスはなかった。

 どんなドレスも新しいものは嬉しいには違いないが、どんな高価な生地であっても、美しいレースであっても、それは新しい本や刺繍糸を手に入れた時と同じ喜びだった。



「どんなドレスでも、構わないの?」

「ええ。私をよく知る方々が作ってくれたものなら間違いありませんもの。」


「そうか…。じゃぁ大丈夫かな。ヴィオラのドレスは僕が色々注文をつけたんだ。もちろん、母上やマダムの意見は貴重だから三人でよく相談した。だからおかしなものにはなっていないはずなんだけ…ヴィオラ?」

 ルチェドラトは、妹が涙を流しているのに気がついて慌てた。


「どうしたの?」

「お兄様。私…。」

「なに?どうしたの?」

「私…、とても幸せで…。お兄様が選んでくださったなら間違いありませんもの。」

「ヴィオ…。泣かないで…。」

 ルチェドラトは、妹が喜んでいることがわかって安堵としながらも、妹の涙をとめたい一心で、妹の頬を指で拭った。


「大切なドレスが増えました。着るのが楽しみです。」

「ヴィオ…?どうして泣くの?」

「お兄様が…大好きだからですわ…。」

「僕が…。」


 その時、ルチェドラトは思い出した。


 一年前の夏、妹は成人式のドレスについて話していた。

「お兄様。私、そろそろ来年の成人式のドレスを考えなくてはならなくて…。三着も作らなくてはならないんです。」

「そうか。もう来年には、ヴィオラは成人するんだね。」

「はい…。それで…。」

 ルチェドラトは、嫌な気分に囚われ始めた。

 来年、妹が社交界デビューすれば、どんなことになるだろう…。

 僕が、そうしなくてはならないように、ヴィオラも夜会で他国の王太子だの高位貴族だのとダンスをすることになるのだ…。


「その…どんなドレスがいいか…。」

「大丈夫だよ…。ヴィオラならどんなドレスでも似合うから。」

「……。ありがとうございます…。」


 ――そうだ…。


 あの時、ヴィオラは僕にまたドレスを一緒に選んで欲しかったに違いない…。


 十二歳の時も「ドレス選びは苦手だ。」と言っていたじゃないか。


「こうしてお兄様が一緒に考えてくださると、苦手なドレス作りもとても楽しいわ。公務の席では、きっととても緊張するでしょうけれど、他の誰がどう思っても、少なくともお兄様だけはこのドレスをおかしいと思わないことを知っているから自信が持てるし、何より、お兄さまに褒めていただければ、それでいいんだもの。」


 ――ああ、そうか…。


 ルチェドラトは、切なく眼を伏せてから、立ち上がった。

「ヴィオ…。ベンチに行こうか。」

 ルチェドラトは、ヴィオラをそっと立たせ、ベンチに並んで座った。

 妹はまだ、小さな女の子のようにしくしくと静かに泣いている。


 ルチェドラトは、妹の頭を自分に寄りかからせるように腕をまわし、遠くを見ながら優しく撫でた。

「僕のブルーベル…。」

 切なくなるほどの幸せを噛み締めながら、ルチェドラトは妹の頭に自身の頭をのせた。


「泣かせてごめん……。ゆるしてくれる?」

 ヴィオラは、意味がわからず兄を見上げた。

 ルチェドラトは、微笑みながら妹の涙を拭った。

「ゆるすって…。何をですか?」

「ヴィオラを泣かせてしまったことだよ。」

「まぁ…。これは…私が勝手に…。」

「ふふ。じゃぁ、ゆるしてくれたと思っていいよね?」

「……?ええ…。でも何も…。」

「うん…。」


 再び、同じ方を向き、妹の頭を自分に寄りかからせた。



 ひととき、切なくも甘やかな時間を過ごしたが、夏の日差しがベンチに差し掛かり始め、二人は陽の当たらない涼やかな風が通る日陰のテーブルに移った。




「そういえば、あれが出来上がったんだよ。本当はヴィオの誕生日プレゼントにしようかと思ったけど、早く二人で遊びたいから、来月まで待てなくて今日持ってきたんだ。」

「まぁ!」


 ルチェドラトがテーブルに運ばせたのは、ボードゲーム。


 ヴィオラが、前世の記憶で兄に製作を依頼したものだ。


 正方形の板に、升目が彫られた盤。

 綺麗な器に入った両面の色が異なる円い駒。


 対戦する二人が駒の色を決め、交互に盤面へ駒を置き、相手の色駒を自分の色駒で挟むことによって、自分の色に返していく。

 最終的に、盤上にある自分の色駒の個数を競う、あのボードゲームである。


 最初にヴィオラが「異世界転生と言えばこのゲームよね。」とルチェドラトに説明したときには、盤も駒も紙で作って説明したのだが、今目の前にあるものは、全て木で作られていた。


 駒の両面の色はかすかに違う程度だが、片面には全てに菫の花が彫られている。


「まぁ、なんて美しい…。」

「本当だね。とても可愛らしい。」

「お兄様、あれからダンテと対戦なさいました?」

「うん。ダンテは、このゲームが気に入ったらしくて、とても強いんだよ。最近はよく負ける。」

 兄は思い出したように、離れたところに控えるダンテを見てクスクスと笑った。


「ヴィオラの成人式が済んだら、このゲームを解禁するつもりだから、今、様々な材料で作らせている。コルク樫の森も順調だから、コルク製の駒も作ってるよ。森は今後、自然に任せるから緩やかな生産量にはなるだろうけど、それでもコルクの需要は高いし、コルク樫の森を任せた叔父上も喜んでる。」

「まぁ、叔父様におまかせすれば安心ですね。」

「そう言えば、叔父上はとうとうご結婚なさるそうだよ。結婚式は来年だそうだ。」

「まぁ!」

 母の弟である伯爵は、姉への愛を拗らせてずっと独身だった。

「結婚式には私も出席したいわ。いつ頃かしら…。」

「夏にしたそうだよ。」

「それなら私も出席出来ますね。お兄様もご出席なさるでしょう?」

「うん。一緒に行こう。」


 二人は楽しくおしゃべりしながら、ゲームをはじめた。

「ダンテは、このゲームにのめり込んでいて、そのうち宮殿でこのゲームの大会もしようと企画してるんだ。でも、とにかく今は僕としか対戦出来ないから時間が空くとすぐにこのゲームをやろうと言い出して…、大会が開催されても優勝はダンテだろうな…。」

「ふふっ。お兄様は、このゲームをお気に召しました?」

「うん。これはなかなか奥が深い…。きっと対戦相手があっという間に増えると思う。」


 二人は何回かゲームをしてから、セヤの国から持ち帰った紅茶を飲み比べ、『バーモントの庭』を歩いて植物の話をし、セヤの王宮、セヤの庭園、学園の話をして楽しい午後を過ごした。


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