黒猫と黒いモヤ
九月になり、幾分過ごしやすくなってきた満月の美しい夜。
十三歳になったばかりのルチェドラトが、森で小さな黒猫を拾ってきた。
「まぁ…!なんて可愛らしいのかしら…。お兄さま、この子、目が紫と金なのね!素敵ね。」
「うん。オッドアイだね。」
子猫は、
ゴロゴロと喉を鳴らしている子猫を、ヴィオラは愛おしそうに撫でる。
ヴィオラの部屋についたとたん、自身の腕から離れ、すぐさま妹の膝の上にとび乗った子猫を、ルチェドラトは少し不機嫌そうに見たが、ヴィオラの喜ぶ顔を見ると気を取り直し、妹の横に腰かけた。
「気に入った?森の中でしばらく僕をじっと見て、ついて来たんだ。」
「まぁ、近くに母猫はいなかったの?」
「うん。探したけれど見つからなかった。」
「そうなの…。あなたひとりぼっちだったのね…。」
優しく話しかけられた子猫は、丸くなったままヴィオラに向かってニャァと鳴いて、気持ち良さそうに目を閉じた。
「可愛いわ…。言葉がわかっているみたい…。」
「そうかもしれないね。」
ルチェドラトは少し困ったように微笑んだが、ヴィオラは気がつかなかった。
「お兄さま…。この子…、どうなさるおつもり?」
「うん…。ヴィオラがよければ一緒に飼おうよ。」
「まぁ!お兄さま!もちろん賛成よ!名前は何にする?」
「ヴィオラが決めるといいよ。きっとこの子も気に入る。」
「そう?いいの?」
ヴィオラは、膝の上の子猫を撫でながらしばらく考える。
「ではルルちゃんにするわ。今日は満月だから本当はルナちゃんがいいかと思ったのだけれど、男の子だからルルちゃんにするわ。」
「ルル…。も女の子みたいだけど、僕は構わないよ。」
ルチェドラトは可笑しそうに答えた。
「では、この子に聞いてみるわ。あなたルルちゃんと呼ばれるの嫌かしら。」
撫でながら声をかけると、子猫はゴロゴロと喉を鳴らしてヴィオラの腕に尻尾を絡ませてきた。
「気に入ってくれたみたい。」
ヴィオラは嬉しそうに子猫の寝顔を覗き込んだ。
「僕がいない時には、ルルがヴィオラを守ってくれるよ。」
「まぁ、ルルちゃんが?」
ヴィオラが面白そうに兄を見ると、兄は笑ったが意外にも真面目な顔で頷いた。
「うん。」
兄の真意はわからなかったが、兄が外交や視察でいない時に熱を出すと、体力が戻るまでにかなりの時間を要する自分を、安心させるつもりでそう言ったのだと感じたヴィオラは、嬉しくなって微笑んだ。
「じゃぁ、ルルちゃんはお兄さまの分身ね。頼りにしてるわ。ルルちゃん。」
ルルは、目を閉じたまま再びヴィオラの腕に尻尾を絡ませた。
次の日から、ルルは王家の一員のように扱われた。
小さな黒猫は、意外にも多くの時間をルチェドラトと共に過ごし、時々気まぐれにヴィオラのところにやって来た。
ヴィオラは大喜びで、ルルが飽きるまで遊んでやり、ここでそのまま眠ってはくれまいかと小さなブラシで優しく撫でてやった。
だがルルは、小さなブラシを満喫して蕩けたような姿勢でうたた寝しても、夜は自分用に作られた気持ちのよい寝床で眠ることに決めているらしかった。
自分にも懐いているはずの子猫が、昼間はほとんどルチェドラトと一緒にいるので、もっとルルと仲良くなりたいヴィオラは毎晩のように一緒に寝ようと誘ったが、ルルは素知らぬ顔で自分の寝床に行ってしまう。
だが、十月の半ば頃、相変わらず二ヶ月に一度の決まりごとのようにヴィオラが熱を出すと、いつものように看病するルチェドラトと一緒に、ルルもヴィオラの傍らで眠った。
今回は、熱が出てから引くまでの時間がとても短かったが、熱が出ている間の身体の辛さはいつもの何倍かと思われるほどだった。
それまで、高熱がいくら辛くとも、自分の死は、『毒殺』によるもので、兄が十六歳になってから。と、どこかのんびり構えていたヴィオラだが、今回ばかりは「もう、ダメかも知れない。」と、覚悟したほどだ。
高熱に苦しむ辛い現状と、非力な自分を嘆くあまり、ヴィオラは「誰にも話してはいけない。」と心に強く決めていたことを話す夢を見た。
「お母様が毒殺される夢を見る。」
「自分も毒殺されるかも知れない。」
「タラの国の飢饉に備えたいのに何も出来ない。」
話し終わるまで、誰に話していたのかわからなかったが、話し終わってみると、そこには兄がいた。
夢の中のルチェドラトは、私の頭がおかしくなったと思ったに違いないが、苦しげな表情で辛抱強く話を聞いており、優しく慰めてくれた。
「大丈夫。何も心配いらないよ。僕が何とかするからね。ヴィオはゆっくり休んで早く元気になるんだよ。」
優しいまなざしの兄と、艶やかな黒毛のルルの美しいオッドアイを見つめながら、重く心に秘めていた心配事を聞いて貰った解放感と、とうとう話してしまったと言う黒々とした後悔が押し寄せたが、ルルが頬にすり寄るのを感じながらそのまま深く眠った。
熱が引くと、「あの苦しさは何だったのだろう。」と思うほどの早さで体力が戻って行くのを感じたが、死を覚悟した時に、兄に何かを訴えたような記憶が残っていた。
「お兄様…。私…、何かお兄様におかしなことを言いましたか…?」
兄は、ほんのりと微笑みながら、不安げな妹を見つめた。
「覚えていないの?ヴィオラが、僕や家族、タラの国をとても大切に思っているって話をしてくれたんだよ?」
――そんな話だったかしら……。でも、お兄様がそう言うならきっとそうなのね。このモヤモヤした気持ちは、夢の中の残り香のようなものなんだわ。
安心したように笑顔を見せたヴィオラの額に、そっと唇をあてるとルチェドラトは妹を抱きしめた。
十二月にヴィオラが再び熱を出した時、「熱が出る一日前からルルが妹の傍らで眠っていた。」と、ルチェドラトが指摘したが、侍女達は「はぁ…。作用でございますか…。」と、戸惑いながら頷くだけであった。
この時は、熱が出ている間もいつもほど辛くはなく、前回同様、回復するまでに四日程度しかかからなかった。
妹が熱を出し、回復するまではいつものようにヴィオラの側から離れずにいたルチェドラトだが、回復するとすぐに馬車で出掛けていった。
ここのところ、ルチェドラトは外出が増えていた。
時には二、三日戻らないこともあり、戻って来ても、宮殿にいるよりも城の執務室にいる時間の方が長い日が続いている。
ヴィオラは少し寂しい時もあったが、兄がまだ十三歳にも関わらず、王太子としてとても忙しい日々を送っている事を誇らしくも思っていた。
外出していない時には、午前中には必ず妹とお茶をする時間を確保し、これまではあまり接点の無かったような国の重役からの伝言や書類が届くようになっても、一緒に過ごしている間には妹を蔑ろにするようなことはしなかった。
この頃は、ダンスのレッスンも勉強も二人一緒にすることが難しくなっていた。
勉強に関しては、年齢とともに王太子と王女では習うべきものが異なる為に仕方のないこととして受け入れていたルチェドラトだが、ダンスのレッスンだけは妹と一緒でなければやらないと決めている。
ルチェドラトは、ダンスのレベル的に日々レッスンを受ける必要はなく、早朝の剣術、公務による外出、城での執務に勉強と、十三歳には負担の多い生活だ。
その為に、ダンスのレッスンは月に一度だが、その日にヴィオラが体調を崩していればレッスンは当然のように休みになった。
一方のヴィオラは、体力作りの為にと毎日のようにレッスンを受けている。
月に一度、正装に近い服装で行われる兄とのレッスンは、ヴィオラにとってご褒美のような時間だった。
一人で過ごす時間の増えたヴィオラは、昔から絵や刺繍が好きだったことを思い出し、兄に様々な刺繍を施したハンカチを贈った。
刺繍のデザインの多くは『ルチェドラトの紋章』『ルチェドラトのイニシャルを花で飾ったもの』であったが、白いハンカチに、白い糸で刺したり色鮮やかな糸で華やかに刺したり、デザインの大きさを変えてみたりと工夫を凝らした。
上達した頃、紋章とイニシャルを組み合わせた優美なデザインの繊細な刺繍を金の糸で刺し、ルチェドラトに喜ばれた。
「すごいな…。これは、普段使うには勿体ない…。次の式典で…。いや、額縁に入れて執務室に飾ろう。」
兄は、一番最初の拙い刺繍のハンカチの時から、いつでもとても喜んでくれたが、この金糸のハンカチを贈った時は喜ぶだけでなく大いに感嘆してくれた。
ルチェドラトの希望により、いつしか刺繍にはヴィオラのイニシャルも小さく刺されるようになり、ルチェドラトの執務室は、ハンカチだけでなく、幼い頃の二人の後ろ姿や、金のルル、ルチェドラトがヴィオラに贈った花などの、かわいらしい刺繍が飾られた額縁が増えていった。
年が明けるとよりいっそう寒くなり、時折雪がちらつくようになった為、ヴィオラは、なかなか思うように散歩に出ることができなくなったが、体力作りの為にも、刺繍のアイディアの為にも、宮殿内や温室を歩き回った。
これまでの経験上、次にヴィオラが熱を出すのは、この二月のはずだったが、二月の凍てつくような寒さの中でも、勉強もダンスのレッスンも一日も休まず、暖炉に暖かな火を燃やし、散歩をして、刺繍をし、ルルと遊んで、ヴィオラはヴィオラなりに元気いっぱいに過ごした。
だが、三月に入ってすぐ、ルルがヴィオラの元で眠ると、ルチェドラトは「ヴィオラが熱を出すかもしれない。」と、予言めいた事を言い出し、その翌日その通りとなった。
それにより、ルチェドラトは確信を持って「ルルがヴィオラと一緒に眠るようになったら、皆も気を付けるように。」と周知し、ルルは不思議な力を持つ猫として宮殿内で認知されることになった。
黒猫ルルが王家に来て数ヶ月が経ち、タラの国は少しずつ春が始まろうとしていた。
ヴィオラは十歳。
間隔が開いてきたとはいえ、特に無理をしているわけでもないのに、急な高熱で寝込む自分をもて余していた。
家族や国にとって、とりわけ兄のルチェドラトにとって、ヴィオラの高熱は最大の心配事であったが、それ以上に本人は深刻に悩んでいた。
前世の夢はもう見飽きた。
高熱は本当に辛く、熱が引いたあとも体力が戻るまでに数日かかってしまう。
この国が、五年後には飢饉に見舞われるとわかっているのにまだ何も出来ていないし、母が毒殺される年まではあと僅かしかない。
ただ、数ヵ月前のお茶の時間に、飢饉に備える策になればと思うような事を兄に話すことができた。兄は身を入れて聞いてくれたし、喜んでくれたが、頼りになる兄が何か動いてくれたとしても結果が出るのはまだ先だ。
それに、飢饉よりも前に母の毒殺を止める方法を何とかしなければ…。
焦りばかりが先に立ち、思い付く限りの解決策を日記にしたためてはいるが、日記が何冊も積み上がるばかりで何も出来ていない。
何しろ高熱を出すこの身体のせいで、外出は庭園内しか許されておらず、閉塞感を募らせるとまた熱が出る。
元気な時には日々体力作りに励み、皆には内緒で解毒についての勉強もしているが、わからないことだらけで涙が出そうになる。
刺繍は無心になれる楽しい現実逃避として上達する一方だが、刺繍では何も救えないのだ。
母を毒から守り、将来的には自分をも毒から守らなければならないが、幼い王女が怪しまれずに解毒剤の研究をすることも、その複雑な研究をすることも、手に余る難題であった。
――もし、今年の夏の、お兄様の十四歳の誕生日までに、解決策が見つからなかったら、お兄様に全てを打ち明けて、相談するしかない。
兄にも、両親にも信じて貰えないかもしれない。
王子が魔王になるだの、母が毒殺されるだの、国が滅びるなどと言う不吉な話を、王女である自分が話し出したら…。今までと同じようには愛されないかも知れない。
でも、私の事を不審に思っても、一年かけて策を練って、その後の一年、母が毒殺されないように十分に気をつけて貰う方がいい。
ただ、母を無事に護れても、私が殺されたらお兄様が魔王になることを信じて貰えなければ、どうすることも出来なくなる。
『魔王誕生』だなんて、誰が信じてくれるだろう…。
――でも、一生懸命説明して…。
三年間はどうにか私を信じて護って貰って…。
――どうにかって…。
どうやって…。
このことは何度も考えた。
こんな大事な事を兄に話さないでいるのは、
「大切な兄を魔王にしないためだ。」
そう思う自分を信じているし、信じたい。
でも…。
「もしかしたら自分の保身のために、先延ばしにしているだけなのかも知れない。」
そんな切ない自覚もまた、ヴィオラの中に少しずつ芽生え始めていた。
悩み多きヴィオラだが、今日はスッキリと目覚めたせいか朝食を美味しく食べ終え、部屋でルルと遊んでから気分よく森へ散歩に出かけた。
暖かくなってきたので、早朝、兄が剣術の稽古をしている一時間ほどの間、城の周りや宮殿裏手の森林を無理なくゆっくりと散歩するように勧められ、それが終わると、兄と二人でテラスでお茶を飲む約束になっていた。
――今日はお兄様がいらっしゃるから、散歩の後にはお茶をご一緒出来るのだわ。
侍女や護衛とともに元気よく森へと続く小道を歩いていると、見慣れた景色の中に真っ黒なモヤと灰色のモヤが見えた。
「ユナ…。あそこに見える黒いモヤは何かしら…。」
つい先日結婚が決まった上品な侍女は、首を傾げた。
「黒いモヤですか?どちらに…?」
「ほら、あそこよ…。草の茂みにいくつか見えるわ…。」
恐ろしげに茂みを指差す王女につられて、侍女は不安そうに護衛を見た。
護衛は王女の指差す方へ近づき、剣で茂みを掻き分けてみたが、何もない。
振り返って首を振ると、頷く侍女の傍らで、王女は青くなって立ちすくんでいる。
ユナは、下級侍女のリナに目配せしルチェドラトを呼びに行かせた。
「ヴィオラ様、少し休みましょう。すぐに椅子を用意させますので。」
ヴィオラは、言われるがまま椅子に座るが、黒いモヤの茂みから目を離せずにいた。
辺りを見回してみると、黒いモヤと灰色のモヤが点在しユラユラと揺れている。
「あなた達には…、見えないの…?」
不安そうに侍女と護衛を見上げる王女は真っ青だ。
ユナは、周囲の侍女と護衛を見回したが、誰にも見えていないようだ。
皆、心配そうに王女を見つめるが、見えないものは見えない。
「はい…。私どもには…。」
「そう…。」
――どうしたのだろう…。昨日までこんなことはなかったのに…。でも、今は確かに茂みのなかにモヤが見える…。
「ヴィオラ…。どうした。」
急いで駆けつけたルチェドラトは、息を切らしながら、努めて穏やかに妹に声をかけた。
「お兄さま…。わたくし…、目がおかしくなったようです…。」
ヴィオラは、半ば呆然としながら兄に訴える。
「どうして?」
ルチェドラトは静かに息を整えながら妹の前に腰を落として微笑み、冷たくなっている妹の手を両手で優しく包んでやった。
「草の茂みにモヤが見えるんです。黒いモヤと灰色のモヤがあちらこちらに…。でも、私以外には見えていないようなのです。」
――信じてくれるかしら…。
でも、自分でもよくわからない状況なのだもの。うまく説明出来ないわ…。
ヴィオラはそっと草むらを見てみたが、何度見ても同じところにモヤがある。
「うん。わかった。」
兄の優しい声に、ヴィオラは再び兄を見つめた。
「じゃあ、僕が調査しよう。茂みの草が黒く見えたり灰色に見えたりするんだね?」
ヴィオラが不安げに頷くと、ルチェドラトは立ち上がって後ろからヴィオラの肩を抱き、その頬に自分の頬をつけて同じ方向を見た。
「じゃぁまずは黒いモヤのある場所を言ってごらん。」
ヴィオラが指を差すと、ルチェドラトの指示で護衛達がその草を刈り取って持って来た。
「どう?黒いモヤはどうなった?」
「ここにありますわ。」
ヴィオラが護衛の手の中の草を指差すと、ルチェドラトは、異常がないかと言うように護衛に目で合図する。
護衛は何もないと言うように首を振った。
「そうか…。この草が黒く見えたんだね。
では、他にも黒いモヤの見えるところを教えて?」
ヴィオラが黒いモヤとして知らせた草を、護衛が次々に刈り取ってかごに入れる。
ルチェドラトは、次に灰色のモヤとなった草を刈り取らせ、別のかごに入れさせた。
「ヴィオラ、この草を僕が調べてみる。調査が終わるまでモヤの見えないところを散歩するんだよ。」
混乱してよくわからないが、兄はとにかく自分の話を信じてくれたらしい。
ヴィオラはホッとして、頷いた。
「さぁ、今日はもう戻ろう。手がこんなに冷たくなってしまってる。」
ルチェドラトは侍女からショールを受け取ると妹にかけてやった。
「ありがとう。お兄さま。」
「怖かったね。でも何も心配いらないよ。僕がよく調べるからね。」
――ああ、なんて素敵なお兄さまなんだろう。
ヴィオラが安心したように笑顔を見せると、ルチェドラトは微笑み、優しく妹を抱き上げた。
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