第9話 蒼い星が降る夜に

月明かりに儚げに輪郭が揺れている。


大判のガウンを羽織り、優雅にこちらに向かって歩いてくるその姿は、この世のものとは思えないほど、美しかった。


「眠れないんですか…?」


「はい…」


「そうですか…僕もです。」


そう呟く遠夜とトアは、自然とソファに腰かける。


もちろん人が一人座れそうなくらいの隙間がその間にはあった。


吐息がふわっと隣で揺れる。


「今日は、買出しを手伝えなくてすみませんでした。」


「いえ…そ、そんな…。助けてくれて、ありがとうございました…」


「助けただなんて…大げさですよ。落ちてきたので掴んだまでです…」


遠夜はこちらを見ずに、穏やかに言葉を選んでいる。


「…実は…、あのあとずっと考えていました」


「えっ…?」


「トアさんなら大丈夫かもしれないって…。」


驚いて隣に座っている遠夜の顔を見れば、少し俯いた綺麗な輪郭が月の光のもとで浮かび上がっていた。遠夜は握りしめていた手を少し開き、手のひらをじっと見つめている。


「でも、頭の中で何度試してみても、ダメでした。昔から、ずっとずっと繰り返しています。…僕は…ダメなんです。」


「遠夜さん…」


一体、何が…。喉元まで出かかったその言葉を、口にすることができない。それほどまでに、彼の身体の周りには、拒絶と孤独が強く渦巻いていた。


気安く触れれば、飲み込まれてしまいそうな闇。


自分にその闇に踏み込む勇気がないということをはっきりと思い知らされ、余計に苦しくなる。


月明かりに照らされた、無理して笑った横顔が切なくて、トアは沈黙した。


「人間は僕たちに比べて、脆いですから…。」


「そう、ですね…。」


庭を眺めながら、遠夜が深くソファに沈み込んだ。


目を閉じ、ふぅ、と小さく息を吐いている。


「僕は、あなたはここにいてはいけないと、思っていました。」


遠夜は天井を見つめたまま続ける。


「僕たちのためにも、そして、なによりも、あなたの為に…」


「…。私の…ため…。」


この屋敷に立ち入った時、トアは無知でなんの覚悟もない、ただの好奇心の塊にしか過ぎなかった。そんなトアとカナタの板挟みに遭いつつ、遠夜は、あえて遠ざけ、守ろうとしてくれたのだと知った。


「でも、あなたを見ていると…今日は気づけば、身体が勝手に動いていました…。自分でも未だに信じられなくて…」


ふ、と顔に影がかかり、目を上げると、遠夜がゆっくりと立ち上がるところだった。


「貴方に初めて触れた時、身体に不思議な衝撃が走りました。何か、懐かしい…。トアさん…僕に…もう一度、試させてくれませんか?」


揺れる瞳を隠さず、こっちをまっすぐに見ている。


こんなにしっかりと遠夜と見つめあったのは、はじめてだったと思い返す。でもそれよりも、その美しい蒼い瞳から目を逸らすことができず、心臓がとくん、と一回波立った。


遠夜がそっと手をあげ、こちらにゆっくりと伸ばした。


トアの目をじっと見つめたまま、手を恐る恐る伸ばす。トアもそっと、その華奢で綺麗な手にむかって手を伸ばす。手のひらが、近づく。


もう少しで、触れられそうなのに。


−アナタヲユルサナイ バケモノ


美しい唇から、愛しい喉笛から、紡ぎ出された言葉が、心に突き刺ささる。


過去の記憶に囚われた遠夜は、その言葉が放たれた瞬間を追体験していた。


「っ……!」


遠夜が恐怖に息を飲み、指先が怯えたように揺れて、その手は固く閉じられた。


今にも崩れてしまいそうな彼は、顔を覆い、逃げるようにトアから離れた。


「っ…やっぱり…だめです…。」


−僕はバケモノだ…。


遠夜の両手で顔を覆った隙間から見えた唇が、何かをつぶやく。


しかし、ソファに沈み込んだ衣摺れの音にかき消され、その今にも消えそうな声が、トアの耳に届くことは無かった。


「遠夜さん…」


「…情けない…姿を…見せました…。ごめんなさい、貴方は悪くないんです。」


頭を抱え、俯き、ソファに崩れるように座った遠夜。呼吸は荒くなり、額にはうっすらと汗が滲んでいる。綺麗な黒髪は乱れ、顔を半分覆い隠してしまっている。その髪の向こうに覗く蒼い瞳は怯えたように歪んでいた。


何かを傷つけるのを恐れているのか、自分が傷つくのを恐れているのか。だけど必死に手を伸ばす。

それでも、と何かを求めている。


そこにはいつもの穏やかな微笑みはなく、初めて見る遠夜の苦しむ姿は、目を背けたくなるほどのものだった。


それでも元気づけたい一心で、トアは明るく言葉を返す。


「大丈夫です…。情けなくなんかないです…、何度も何度も、挑戦しているんですよね…。それだけで遠夜さんは、前に進み続けていると思います。」


仲間といても、ひとりでいても、どこか遠くを見ているような遠夜を放っておけない。そう強く思っている自分に気づく。


「トア…さん…」


驚いたように揺れる青が光を取り戻す。


「まだバイト続けてみたいと思っていたんです…。最初は私もすぐに出ていこうと思っていました。でも、皆さんを見ていると、その…」


言葉に詰まり、選んでいると、その表情から伝わってしまったのか、遠夜が笑いだした。


「僕たちが不器用すぎて放っておけないんです…よね…?」


「そ、それは…」


「ふふ、お人よしですね」


遠夜が冗談めかして笑う。


その疲れた表情に、うっすらと笑顔が戻っている。


「ま、まぁ…そうかもしれません…ふふ」


「僕たちは、いびつな家族なんです…なにか大切なものが、抜け落ちてる」


「え…?」


−僕たちだけじゃ、それを見つけることはできないのかもしれませんね。


遠夜はにこ、と控えめに笑うと、窓の外に輝く紺碧の空と、星を見つめた。


その時、トアの胸に広がっていった暖かい気持ち。


−この人を心から笑わせてあげたい


そう願う心はいつしか、二人で見上げる夜の星空へと溶けていく。


「星…今日も綺麗ですね。どうしてあんなに青いんでしょう…?」


唐突に聞こえた間延びした声と、小学生のようなセリフ。


びっくりして横を見れば、真顔でぼんやりと考え込んでいる様子だった。


おそらく他意はなく、半分本気で不思議に思っているに違いない。


しばらくの沈黙のうちどうしていいかわからずトアがごまかし笑いをすると、遠夜も目をそらして、また、困ったように笑った。


急に訪れた静寂に戸惑い、慌てて窓の外に視線を移動させる。


「青い星は生まれたばっかりで、若い星なんですって」


「そうなんですか…では、赤く見えるのは?」


「おじいちゃんです。」


「へぇ…。」


他愛もない会話をしていれば、遠夜がゆっくりとソファから立ち上がる音がした。


「なんだか落ち着きました。それじゃぁお休みなさ…」


振り返った瞬間、お互いの体がすごく近くに感じられた。



「お、おやすみ、トアさん。」


「あ、す、すみません、」



遠夜が焦った表情を浮かべ、たどたどしく一歩下がる。


「では…」


「はい」


こうして幻想的な夜の思い出はそっと幕を閉じた。



かと、思われた。



が、お互いすっきりして、部屋に帰ろうと思ったその矢先、相手をかわして勢いよく一歩踏み出したその足は、方向が一緒だった。



「「・・・・・・・。」」



さらに、ごめんなさい、と笑って逆に踏み出す。


と読んであえて逆へと体を向ける。


が、向かいにいるその人も全く同じ思考回路だった。


見事にフェイントの掛け合いになる。


遠夜の体に触れてはいけないという意識が働き、なおさらぎこちない動きになる。


「ちょ、ちょっと、トアさん…。まいったな…ここまで息が合うなんて、…」


すこし照れたように遠夜が笑う。


「遠夜さん、…えと、次右行って下さい、私も右行きますから。」


「はい」


確かにはい、と言ったのをトアの耳は聞き届け、足を出すよう脳に指令が向かう。


「えっ!」


しかし、遠夜は左に踏み出した。 

吸血鬼には言葉が通じないだなんて聞いていない。


触るのは嫌だろう、と死ぬ気でぶつかるのを避けた努力の結果、トアは体をひねり、後ろにひっくり返り。その瞳には、止まり切れなかった遠夜が倒れ込むのが見えていた。


「と、遠夜さんっ、それ左ですよ…!いた…、…ダメ、面白すぎる…。」


「ははは…あ、あれ、トアさんから見て右だったら、僕の左か、と…」


慌てて床に手を付き起き上がると、ギリギリ体に触れない場所で、遠夜が目を見開いていた。


言葉が、どちらともなく、途切れ、一瞬、無言の時が流れた。


月明かりを浴びたその瞳が一瞬強く揺らめき、透き通る青が深みを増したような気がした–。


互いの心臓の音が、時計の針の音に重なって聞こえだしそうだ。慌てて忘れていた呼吸を再開する。


「い、いえ、私側から見なくていいですからっ…」


「です、よね…。これでは僕がすごく積極的に見えますね…。」


まずいなぁ。と、のんきに笑う遠夜。


「見る人が見たらそうなっちゃいますから…ど、どきましょう…!」


「そうですねぇ」


全然慌てる様子がない彼を見て、トアは慌てて離れるように促す。二人は夜中だということも忘れて、しばらく笑いあっていたのだった。


-がちゃ


「誰かいんのー」


「あ、」


「リオさん」


ドアの向こうから最悪のタイミングで顔を出したのはリオだった。


「ぶっ!!と、遠、遠夜っ…!?ご、ごめんっ、見てない、見てないからっ!!!どうぞっ!」


「いや、見てると思うのですが…」


「いでっ!」


「むしろ、前、みてください…。」


リオは顔を覆うとそのまま回れ右をして戻ろうとし、ドアの横の壁に激突した。


「だ、大丈夫ですか・・・。」


「ごめんっ、まさか、ふたりが、もうそういう関係だとはっ…」


「ち、違います…リオさん…。事故です…。」


「事故!?もう事故ったの!?」


リオは気が動転しすぎて、盛大な勘違いをしているようだった。


「リオ…。違います。これは…ちょっと試していただけです」


「なっ、なにをっ…!?」


「何って……触れられるかですよ。」


「は!?ごめんって!!!!おやすみっ!!!!!あぁっ…」


「…はぁ。」


顔を真っ赤にして、怒ったりぶつかったりするリオを落ち着かせるのに、また1時間ほどかかりそうだった。





つづく




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