第8話 触れられない手


遥希の水被り事件から数日が経ったある日。


早めの朝食を終えて、のんびりした時間が流れる昼下がり。


時計はお昼の12時を超えようとしていた。


暇そうにソファで足をぶらぶらさせていたカナトが急に何か楽しいことを思いついたように、顔を輝かせた。


「人間、ちょっと手借してねー」


ぱっと起き上がったカナトが歩み寄ってきて、トアの手首を有無を言わせない強い力でつかんだ。鷲の瞳のような目の覚める黄金の瞳がおもしろそうに歪む。


「はい、遠夜さんは動かないでー。」


「な、なんです…?僕になにか…」


カナトがゆっくりゆっくりトアの手を遠夜に近づけていく。


トアはわけもわからず、腕を引っ張られる。


「……!」


遠夜の表情が見る見るうちにこわばった。


腕まであと10センチくらいに迫ったとき、近づいてくる手に重なるように遠夜の頭の中にフラッシュバックする光景があった。


夜の闇に、松明の明かりが浮かび上がる。


青白い光が近づき、あたりを漂う強烈な血の香り。


暗闇から伸びる、手–


「…や、やめっ…やっぱりだめだっ…!」


「きゃっ!」


遠夜が叫んで、大きく飛び退った。踏み切った床はへこんでいる。


「んーやっぱだめなんですねー、ま、この人間も所詮そこら辺の人間と同じってことがわかっただけですねー」


カナトが満足そうにトアの手を離した。


「カナト!遠夜が嫌がってるだろ!トアさんのその呼び方も!」


リオが、はぁ、と申し訳なさそうにため息をつき、マグカップを置いた。


「えぇ、でもー。うちに来るくらいだからなんか特別なのかなーって。ふんっ」


どうやら、カナトはまだトアを追い出すのを諦めていないようだった。それに気づく度に申し訳なくなり、このバイトをいつまで続けようかと、トアは自分自身に問いかけるのだった。


「カナト!やりすぎ」


「カナまでー、ちょっと実験してみただけじゃん?」


「ご、ごめんなさっ…」


とっさに我に返って、入り口の扉付近で肩を上下させている遠夜に向かって謝った。


「トアも。何にもしてないだろ?そうやってすぐ謝るの、やめたほうがいいって。」


リオは呆れたようにそう告げると、立ち上がった。


「遠夜さん実はねー、人間に触れないんですよねっ。」


そう言うや否や、カナトがまだガクガク震えてる遠夜のところに駆け寄っていき、抱き着いた。


「遠夜さぁん、ごめんね?もう大丈夫ですよっ。でもなんでそんなに怖いんです?こんな弱っちいやつ」


「っ…僕、は、その…トアさん、すみ、ません、少し動揺してっ…」


額に薄っすらと汗をかき申し訳なさそうに俯く遠夜。


「き、気にしないでください、私は、大丈夫です」


動揺を隠せるわけでもなかったけれど、トアはなるべく明るく笑った。


「初めて会ったときも、実は人間の町だというだけで怖くて…でもカナタを探さなきゃって…それで、僕は、」


「遠夜…。」


リオが、困ったように笑いながら、カナトがひっぱってきた遠夜を迎えに行き、その肩を抱いた。


「やっぱりだめかぁ~最近トアと一緒の空間にいても普通だったし、もしかしたらと思ったんだけどな~。」


遥希も残念そうな顔をしている。


「さ、こんな暗い話やめて昼メシの準備しよ。トアさん、手伝って?」


リオがキッチンに向かったので、慌てて後を追いかける。


「今日は珍しくフレンチですよね?家でフレンチなんてできるんですか?」


「まあな。」


リビングから天使のような双子の悪魔の声がする。


「りちゃーん、おなかすいたーあ」


「手伝えカナト」


「奏、パプリカやだ。」


「お前もだカナタ」


重たくなりかけた空気はリオの自称「フレンチ」によって、多少なりとも和らいだのだった。


その日の午後は再び買い出しの時間がやってきた。


今日のトアの買い物担当のパートナーは珍しく遠夜だった。


遠夜にとっては月に1度あるかないかの人間の街への買出し。言わずもがな不平等なシフト表だった。


しかし、先程の出来事もあり、具合が良くなさそうな遠夜を連れていくのは気が引けて、トアはそっとひとりで玄関の扉を閉めた。


せっかくの街だ。どこに行こう、そんなことを考えながら、道を歩く。


もとのバイト先、すなわち元居候先には快くお休みをもらっていたが、たまに顔を見せに来てと言ってくれていた。


しばらく歩いて、坂道を下りながら道なりに曲がると、ようやく森が開け、眼下に街が広がる。


その景色に自然と足が速まる。


しかし、片道20分以上の道のりは、やはり少し堪えるものがある。


次のお給料で自転車、買おうかな…でも坂だし、電動自転車のほうがいいかな。そんな他愛もないことを考えながら、いつもの店に入り、たっぷりと食料を買ったが–


一度の買出しにこれだけ時間がかかるならと、つい、貧乏性が出てしまったのだ。食糧を買い込みすぎたトアは、独りで来てしまったことを少し後悔した。


ため息をぐっとこらえ、気を取り直してお店を出る。


買い物袋を半ば引きずるように歩きながら、補修工事をしているらしい古めかしい時計塔の横に差し掛かる。

見上げれば、高いところで人が働いているのが見える。

落ちたりしないんだろうか、と変な想像を働かせてしまい、トアは怖くなり足速に通り過ぎようとした。


その時、どこか遠くで鳥が鋭く鳴いた。

続く羽音。カランカランという重たい金属音。


何だろう、と独り言を心の中で呟き、そのまま青い空に視線を移す。


見えたのは、切れたロープと落ちてくる鉄のパイプのようなもの。


どうして…そんなことを考える間もなく、鉄骨は容赦なく目の前に迫る。


息を飲むことしか、できなかった。


目の前にスローモーションのように向きを変えながら落ちてくる鉄骨が迫る。


このままだと真っ直ぐに身体に−


「きゃぁぁ!」


その瞬間、トアの身体を護るように鉄骨との間に、風が飛び込んだ。




体にぶつかる柔らかい衝撃。


背に回された腕のような感覚。無重力の中揺れる黒髪。


立て続けに身体を襲う、ふわりと浮き上がる感覚。


一瞬の瞬きをした瞼の裏に、青白い光が消えていくのを感じた。


左手でトアを抱き抱えた影は、天に真っ直ぐに右腕を伸ばしている。


足で踏みとどまり急激に速度を緩めたためなのか


音を立ててアスファルトがえぐれた。


揺らぐことのない青い瞳の残光が、腕の中で怯えるトアの視線を一瞬だけ、しっかりと捉えた。


気がつけば、頭上に迫った鉄骨は私に当たることなく、ギリギリのところで上に伸ばされた細い腕が掴んでいた。


数瞬遅れて、大きな鐘のような音を辺りに響かせながら、周りに、残りの鉄骨が散らばった。


「…っ……トアさん…大丈夫ですか?」


恐ろしさのあまり、固く目を閉じていると、切れ切れにトアを呼ぶ、誰かの声がした。






恐る恐るゆっくりと目を開いた。


心臓が痛いくらいにドクドクと脈打っている。


身体が震えている。


「…、無事……ですか…っ…?」


「…と、…遠夜…さ…ん…?」


逆光の中、優しい青が見えた。


この声は、この優しい穏やかな声は、遠夜のものだ。


「間に合いましたね…怪我をしていなくて、よかった。」


下から見上げる美しい輪郭。


はぁ、はぁ、とまだ少し肩で呼吸をしている。


手で受けた鉄骨の勢いを、背中で止めたのだろうか。


遠夜がぐっと体を起こすと、その分鉄骨が傾いた。


鉄骨が重なる空には太陽が昇り、その影からチラチラと光をこぼしている。


彼はふと安心したように視線を緩めると、伸ばした腕を追いかけるように、空を仰いだ。


遠夜はトア庇うように覆いかぶさっていた体を完全に起こすと、トアの背を少しずつ起こしながら立ち上がり、手で掴んでいた鉄骨を木の棒のごとく軽く地面につけて、笑った。


工事現場から顔を真っ青にして走ってきた男性たちに、あ、すみません…と何故か謝りながら、それを手渡す。


渡された方も、遠夜があまりにも軽々と持ち上げるのを見て、重さを忘れていたようだった。


遠夜が手を離した瞬間3人がかりで悲鳴をあげ、よろめいた。


遠夜は男性たちには目もくれず、トアをそっと地面に立たせた。


肩を抱いている手に、どうしても視線がいってしまう。今朝はあんなに辛そうにしていたのに。その視線に気づいたのか、遠夜ははっと我に返った様子で、手を離した。


「遅くなってごめんなさい。迎えに来ました。今日は僕が買い出し当番だったのに、声をかけてくれてよかったんですよ?重かったでしょう。」


「と、遠夜さん……そ、…い、いえ、あありがとう…ございます…。本当に…」


まだ起こった出来事を飲み込めず、なんとか言葉をつなぐのが精いっぱいだった。


たった今鉄骨を受け止めたその画と不釣り合いすぎる華奢な見た目。

吸血鬼の人間とは違う力を思い知らされる。


「たまたま通りかかって、よかったです。」


またなんでもなさそうにのんびりと話す遠夜。


ジャケットの肩口にできた汚れをパフパフと叩いている。


「遠夜さん、人間の街…怖く…ないんですか…?」


「怖くない、わけじゃないんですが…。知り合いがいれば、ずっとましですよ。」


さ、行きましょう、といつの間にかトアの荷物を持ち、歩き始めた遠夜を慌てて追いかけた。


「見られて、ないでしょうか…?」


小走りで遠夜に追いつき、息を切らしてトアが問いかける。


「んー、見られた、かもしれませんねぇ。」


「そ、それって、大丈夫なんですか!?」


「まぁ、大丈夫じゃないでしょうか…?」


のんびり歩いていく遠夜は眠たそうで、あの鋭い視線が嘘のよう。眩しさにになかなか開こうとしない瞼を、なんとか押し上げているようだった。


あまりにも手早く収拾をつけたせいで、周りの目撃者らしき人たちもきつねにつままれたように、首をかしげ、立ち去って行った。


「どうしてトアさんの周りにはこんな不運が起こるんでしょうね。」


声のトーンは変わらないのに、スッと瞳を細めた遠夜の横顔が少し曇ったように見えた。


「え、た、たしかに…2回連続といえば、それまでですけど…。」


そう口にした瞬間、カナタとの出会いを思い出し、3回でした、と心の中で訂正を加えた。


そして今回以外は全て水を被っています、とも補足した。


「引き寄せちゃう体質なんでしょうかね」


「ふ、不運を!?嫌ですよそんなの…!」


「冗談ですよ。ダイジョウブです。」


「な、なんでカタコトなんですかっ!遠夜さんっ!」


すらっとした後姿を追いかけながら、トアは自然と微笑みをこぼした。

あんなに触れるのが怖いと言っていた遠夜が、身体を張って助けてくれたという事実がなによりも嬉しく、心に残っていた。


−−−


その夜、トアはどうしても眠れず、借りている屋敷の部屋を抜けだした。


―遠夜さん…どうして人間が怖いんだろう…


ぼんやりと考え事をしながら、薄暗い屋敷の中を進む。


ひんやりした廊下を抜け、大広間を抜け、大きなソファのあるリビングに来た。


大きな扉をそっと押し開ける。


青白い月明かりが広い部屋を照らしている。


「はぁ…どうしてなんだろう…。」


つい独り言を言ってしまったその時、床に伸びた光が、不意に揺れた。


「…トアさん?」


「あ、遠夜さん…」


そこに立っていたのは眠そうな目をした遠夜だった。




つづく

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