第6話 命の水
孤児だったトアの、新しい生活が始まった。
そこでは5人の吸血鬼が表向きは人間と同じように生活をしてしていた。
広大な庭付きの屋敷には、対面式キッチンもあれば、ジャグジー付きの風呂もあった。それにたくさんの空き部屋や蔵のようなものまで。
空き部屋の一つを貸し与えられたトアは、住み込みでの軟禁…否、バイト生活をスタートさせたのだった。
トアの朝は、朝食作りに始まる。
「おはよ」
「おはようございます」
最初に起きてくるのはリオ、遠夜だった。
ふたりはなるべく人間に近い生活を心がけているらしい。予想とは裏腹に、昼夜逆転しているということもなく、朝は朝日と共に目覚め、夜はベッドで眠る。
「ふぁ~よく寝たー。おはよぉ~ごはんなぁにー?」
そして遥希も朝ご飯を食べるために起きるようになった一人だった。
「こんな時間にみんなして起きて、何がしたいの〜カナ〜もうちょっと寝ようよ〜」
「俺、朝ごはん食べたい。」
カナトは大体毎朝カナタと一緒に大寝坊を決め込むのだけれど、最近はカナタが起きて朝食を食べ始めたせいで機嫌があまりよろしくない。
「こうやってみんなで揃って朝食を食べるなんて、いつぶりでしょう」
驚いたことに、半月も経つと、遠夜の語尾からは硬さが次第になくなり、少し砕けた話し方をするようになっていた。
水が苦手、と一言で言ってもトアが覚えなければならないことは沢山あった。
自然に存在する状態に近かったり、綺麗な水であればあるほど"痛い"らしいのだが、ちょっと手を加えるだけで−例えばコーヒーなどが、飲めてしまうという不思議もあった。
そこには難しい”定義”が存在するらしく、残念ながらトアにそれを理解することはできなかった。
この屋敷には、吸血鬼が使えるように何か術が施してあるシャワールームがひとつだけ存在する。
その水はまさしく命の水。
毎日夜になると奪い合いが勃発することも珍しくない。
トアが普通の水でできることを代わりにするだけで、彼らの生活の負担は一気に解消されたのだった。
「遥希さんー?どこですか?頼まれてたラピスとラズリのお皿、洗いましたよ~」
「わぁ、綺麗になったじゃん、2匹ともよかったね!トア、まじでありがとー!ついでに、早く遥希って呼んでよ!ね?」
そう言ってニコニコ笑うと、急にトアの肩を抱く遥希。トアはそのまま体の向きを変えられ、気づけば壁側に追い詰められていた。
「はい、遥希。呼んでみて?」
爽やかすぎて流行りの壁ドンの欠片もない。
すらっと長い手足で作った檻に閉じ込められ、笑顔が向けられる。
「はっ、ハル…む、無理です!」
「えー?できるよ!せーの!」
「せ、せーのじゃありません!!」
必死になって言い返すトアを見て、クスクス笑っている。相変わらず飄々とつかみどころの無い遥希だった。
朝食の時間が過ぎれば、再び屋敷は静まり返る。
各々寝たり、出かけたりと穏やかな午後が訪れるのだ。
しかし、今日はトアにとっての試練の日。
滅多に人間の町に行かない吸血鬼の誰かと一緒に街に下りての食糧調達の日だった。
「普段は街への買い出しは主に俺が行ってたんだけど、バイトってことなら、お願いしようかな。」
リオが長い足を組み直し、コーヒーを飲みながら洗い物をしているトアを見やった。
町までは遠く、半引きこもりの5人分の食料を買うとなると、かなりの量になる。
それを考慮した結果、買い物は基本、2人ペアで行くことになったのだった。
「っつーことで、最初…誰行く?」
リオがついっと目だけで遠夜を見て言った。
ふたりともあまり行きたいようには見えない。
後ろを向き、声を押し殺すようにして遠夜に耳打ちするリオ。
「俺どーやって人間とふたりで街歩いたらいいかわかんねーんだよ…!」
「僕は街が怖いです…」
リオに引きずられるように身をかがめたはいいものの、声のトーンも落とすのを忘れたまま普通に話している遠夜。
トアの視線に気づいたのか振り返り、ぎこちない笑みを浮かべてリオが誤魔化す。
「あ、いや、ほら、最初が肝心だからさ、しっかり選ぶから待って!」
見えていて聞こえていることを、トアは黙っていてあげることにした。
「僕は死んでもやです。僕たちを人間と一緒に街行かせたら首筋噛み切りますよりーちゃん?」
カナトが目を半開きにしてリオに訴える。ついでにカナタの腕もガッチリと掴んでいる。
「いや、お前はこっちからいかせねーから安心しろ。」
「わぁい!だって!よかったね!カナ!」
双子の片割れを覗き込む金髪が嬉しそうに揺れた。
「…。」
何か言いたげなカナタは黙って腕を振り解いた。
一同のやりとりを聞いて気が重くなりつつあったその時、リビングのドアを開ける音がした。
「ん…おれ、行く。」
「遥希…?」
だぼだぼのシャツを着たまま、再び寝て起きたらしい遥希がふわふわとおぼつかない足取りで歩いてきた。
いつも朝ご飯のあとは部屋に戻ってそれっきりの遥希を想えば、ものすごく珍しいことだった。
やはり長い髪の毛は絡まり放題でもっさりと膨らんでいて、くぁ、と大きなあくびをする仕草が大型犬のようで少し和む。
「い、行くって、遥希…お前街下りるの何年ぶりだよ…?大丈夫か!?」
リオが歩み寄って心配そうに遥希をのぞき込んだ。
「だいじょうぶだいじょうぶ・・・」
まだ半分寝ぼけている遥希はふらふらと2階の命の水の出る洗面所に向かった。
「なにその冬眠から目覚めた熊同士みたいな会話ー。」
カナトがバカにしたように笑いながらリオを挑発するように見上げた。
「ねーカナー部屋で寝ようよー」
さっきから相当暇なのか、カナタのシャツの袖のボタンを留めたり外したりを繰り返している。
「うっせ。あいつは冬眠してるも同然だろ、引きこもってんだから…」
リオはとても心配そうに遥希が出て行ったドアを見つめている。
やはり遥希はずっとこの屋敷から出ていないようだった。
「べつにー?僕は熊さんがお腹空かせてさっさと人間のこと食べてくれてもいーんですよ?」
カナトが悪い顔をしながらトアに向かって、肉食獣のようにガブっと空中で口を動かして見せる。
ご丁寧に猫がそうするように、爪を立ててこちらをひっかくような動作までつけて。
びくっとして背筋が整うトアをみてクスクス笑っている。かわいい顔してなかなかに残酷なことばかりを言ってくる。
「縁起でもないこと言うなよ…遥希に限ってそんなこと…いや…。」
そうこうしているうちに、少し待てば、バタバタと音が聞こえ、再びリビングの扉が開く。
そこに立っていたのは、服を着替え、まだ少し濡れている髪を乱暴にまとめて無造作に頭の後ろで結んだ遥希だった。
さっきのもっさり犬とは打って変わって、髪の毛の爆発が収まり、半分以上髪に隠れていた綺麗な顔立ちがはっきりと見て取れた。
「おまたせ…トア、いこ?」
「は、遥希さん…?」
「はーやく。ね?」
遥希はニコニコしながら歩み寄り、唖然としているトアの手を取ると、歩き始めた。
「は、遥希…?」
トアとまったく同じリアクションをしているリオの横を通り抜け、
「く、熊さんが山を下りる…!」
目を丸くするカナトと、じっと遥希を見つめてるカナタの間をすり抜け
「遥希、気をつけてくださいね?」
と手を挙げた遠夜の手に何故か軽くハイタッチをして、遥希はリビングのドアを閉めた。
トアが短い支度を終え遥希と一緒に屋敷の玄関を出るときのことだ。一瞬、遥希が立ち止まった。
手をつながれたまま急に止まられてしまったせいで、一歩トアが引っ張る形になる。
「…遥希さん、行かないんですか…?」
不思議に思い、玄関の扉を片手で押し開けながら振り返り、問いかけるトア。
その声に、俯いていた遥希が顔を上げた。
「・・・・・・いく、行くよ。」
開いた扉から、陽の光が差し込み、遥希の綺麗なグリーンの瞳を輝かせる。
一瞬少し眩しそうに目を伏せたけれど、遥希はふぅと深く息を吸ってトアの目をしっかりと見つめ頷いた。
瞳を輝かせた大型犬は、外の世界へと歩き始めた。
ーーーーーーー
「はっ、はるきさっ…まっ」
「すっげー!今こんなんなってんだー!」
しかし、その一歩は、引きこもり吸血鬼にとって、大いなる第一歩だった。
大の大人が目を子犬のように瞳をキラキラさせて、お店を駆けまわったり、商品に顔を近づけたりと、とにかく目立つ。
「遥希さん…!人が見てますよっ…頼むから買い物して早く帰りましょうっ!って聞いてます!?」
そわそわとあたりを見回しながら呟き遥希に視線を戻せば、すでにそこに彼の姿はなく。
「ねぇ、おねーさん、これ俺着れるかな…?」
「き、着れますよ!すっごく似合うと思います!」
「お客様、ちなみに身長何センチですか…?」
「前測った時から伸びてなかったらー186?」
「も、モデルですね~!」
遠くに3人の可愛いショップ店員さんに囲まれながら外の世界を謳歌する遥希が見えた。
大勢の人がジロジロ見ている原因は、遥希の行動が単に目立つからだけではない。
身長は彼曰く、186センチ。
スラっとしていて、薄っぺらい胸板に長い手足。
モデルと見間違われるのも無理はない。
ニコニコといつも優しそうな笑顔を浮かべ、テンションが上がったあかつきには、顔中笑顔にして喜ぶ。
おまけに、引きこもり中に蓄えたらしい長髪をすっきりハーフアップにして、思いのほか爽やかに仕上がっている…。
「トア!こっち!この店も見たい!」
そんなこともお構い無しに遥希はトアをぶんぶん振り回す。
「次いこ!つぎつぎ~!」
言わずもがな、ワガママな大型犬の散歩状態だった。
「あっちのお店みよ!ね?」
「だめですよ…果物屋さん行ってお使い…わ!」
「じゃ、こっちの道から行こ?」
そして、何を隠そう、力が強すぎる。
「わかりましたっ…ちょ、ちょっと、待ってっ—!」
グイッと手を引っ張られた瞬間に、上半身についていけなかったトアの足元がぐにゃりと曲がった。
踵が地面を押し返す感覚がない。
「あっ…!」
バランスを崩したトア身体は、地面へ向かってむなしく倒れていく。
「おっと!」
その瞬間、遥希が気づいて、手を伸ばした。
そして瞬きをする間に、トアの身体は何故か空中へ―
「ごめんごめん…大丈夫?」
「…遥希さん、なに…してるんですか。」
両手でわきの下を支え、まるで子供か動物を抱き上げるようにトアの身体を持ち上げた。
まるで、小さい子に「高い高い」をしている状態だ。
吸血鬼の身体能力と、遥希の高身長だから成せる技ではあったけれど、かっこ悪いやら、恥ずかしいやらで、トアは耳まで真っ赤に染めた。
「あっ、ありがとう、ございます…だ、大丈夫ですから!降ろして下さいっ!」
「でもトア転ばなくてほんとによかったーごめんね、俺が振り回したから。」
街行く人がこちらを向き、クスクスと笑っている。
微笑ましそうな笑顔を向けられる。子供がこちらを指差している。
「遥希さん!人が見てますっ!は、早く降ろしてください!!!」
手や足をバタバタさせても、やはり遥希はびくともしない。
「ほんとトアって小動物みたいだねーおー暴れるな暴れるな、よしよし」
「は、恥ずかしいからやめてくださいっ!」
面白がってなかなか降ろしてくれない遥希だったが、ふと何かに気づいたように視線をトアの足元へと落とした。
「あ…靴、壊しちゃったか…。」
「あ、っほんとだ…」
トアの足にくっついているヒールは踵の部分からボッキリと折れ、かろうじてまだ靴に繋がったままぶらぶらと揺れていた。
トアの目を見ながら、ゆっくりそうっと地面に降ろしてくれた遥希は地面に足が着いた瞬間、ぴくっと歪んだトアの表情を見逃さなかった。
おそらくあの足を付けた瞬間の柔らかい感覚は、足首をくじいたときのものだろう、とトアは思い返す。呆気にとられて忘れてはいたが、足首は確かにジンジンと痛んだ。
「足、痛い…?」
「平気です、これくら・・・・え!?」
次の瞬間にはまたふわりと体が浮き上がる感覚がして、トアは息を飲んだ。
気づけばトアは、世間でお姫様抱っこ、と言われている状態で遥希の腕の中に納まっていた。
「さ、お姫様、新しい靴を買いに行きましょうね?」
「ちょ、な、なに考えてっ…!お、おろして、遥希さん!」
遥希はにこにこしながらトアを抱えたまま、あろうことか立ち止まり、横を歩いていたカップルに近くにかわいい靴屋さんありますか?とさわやかに問いかけた。
町中でこんなことされた上に、立ち止まった興味深々のカップルにガン見されている。
「あぁ…もうだめです、遥希さんのせいでこの町で生きていけない…」
身体の前でクロスさせていた手をほどき、顔を手で覆い隠して死んだふりをするトアに、なおも遥希はにこにこ話しかけてくる。
「近くにあるって!よかったね!」
「うぅ…遥希さん、引きこもりじゃ、なかったんですか…」
「やだなぁ、数年引きこもったくらいで大げさなんだよリオは」
「え…」
魂が抜けたトアの耳に、私もあれやってほしー。と、遠ざかっていくカップルの声が聞こえてきた。
つづく
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