第2話 動き始めた運命

「あの……カナタ、くん!大丈夫ですかっ!?」


揺すっても、叩いてもカナタは目覚めない。

さっきの男たちががもしも戻って来たら大変だ。今度こそ勝てないし、逃げられない。

トアはなんとかしてこの場を離れようと決心して、壁に背中を預けるように崩れ落ちているカナタの体を起こしにかかった。


「お、おも…い」


まだ子供っぽいと感じたのが嘘のように、濡れた服が張り付く体は重く、立ち上がることすらできない。

その時、誰もいないはずのトアの真後ろ、しかもすぐ近くから声がしてトアは悲鳴を上げた。


「あの…手伝いましょうか?」

「わっ!!」

「すみません。驚かせてしまって。」


振り返ると、そこに立っていたのは、すらっとしたどこか儚げな風貌の、若い男だった。


肌は透き通るように白く、その癖のない綺麗な黒髪でさえ、日の光に透けて、空気のように軽く見えた。


頬骨や顎は女性と見まごうほどに綺麗な輪郭を描き、切れ長の目と、涼やかな目元が印象的だった。


細いフレームの眼鏡は、その落ち着いた風貌に、驚くほど似合っている。


そのガラスの向こうに見える瞳は、さっきの男達とは正反対の誠実そうな青い瞳だった。


「あ、いえ、こちらこそ、ご、ごめんなさい…。こっ、この人急に気を失ってしまって…!」


「わかりました。では私が運びましょう。」


そう言ってその男性はカナタに背を向けるように、その場にかがみ込みカナタの腕を引いた。


不安になるくらいに、線の細い背中や腰。


しかし、思いの外、カナタを引く腕は力強く、


腕まくりしたワイシャツから覗く腕を見れば、その力も納得できる範囲内だと感じられた。


「あ、ありがとうございます…急がないと…実は怖い人たちに囲まれてたんです…」


トアもカナタの腕をその男性の肩に回し、ぐったりした体を乗せるのを手伝う。


「そうなんですね…濡れてる…」


俯きながらぼそ、と男性はつぶやいた。


トアが華奢な男性の体を心配した瞬間、その男性は、すっと立ち上がり、カナタを背負ってスタスタと歩き出した。


違和感に近いものが、一瞬トアを襲った。


「ほ、本当に、ありがとうございます…」

「いえ…」


男性は、なんともなさそうにさっきと変わらないトーンで言葉を返した。


「あの…大丈夫ですか?重い、ですよね…」


しばらく待っても返事がないのでトアがもう一度聞くと


「………、私が…ですか?」


と不思議そうに聞き返された。


「はい…。…。」


トアは続けて言ってしまいそうになる「あなたしかいないのに」という言葉を慌てて飲み込んだ。


「えぇ大丈夫ですよ。カナタがご迷惑をおかけしました。あなたもずぶ濡れだ…。」


そう言ってその男性はよいしょ、とずり落ちてきたカナタ君の体を背中に乗せなおした。


「私は大丈夫です、すぐ乾きますから…。それよりこの人とお知り合いなんですか…?」


「まぁ…そんなところです。私は枢木といいます。」


人目の少ない道を選び、二人は少しずつ町中から離れるように歩いた。

ぽつり、ぽつりと会話を繰り返すうちに、ついに町を抜け花がたくさん咲いている、小さな公園に着いた。


枢木と名乗った男性はカナタをベンチに寝かせると、ふぅと小さく息をついた。


「まったくどこに行ったかと思えば。…水をかけられたんですね。」


そして、呟き、カナタの二の腕をギュッと握った。


「知らない3人組の男の人でした。私には、一方的に絡まれてるように…見えました。」


あの瞬間を思い出し、トアはまた少し身震いした。


暖かい春の風が一瞬強く公園を吹き抜ける。


「…そうですか。私がもう少し早く行っていれば…。これ、よければ。」


優しく微笑む男性はそういってポケットからハンカチを出し、にこ、と控えめな笑顔と一緒に、トアに差し出した。


「ありがとうございます…。でもカナタくん、強かったです。ずっと、抵抗していなかったんですけど、でも、ほんとに危なくなったとき、助けてくれて…。」


トアは記憶の中のカナタを思い出しながら言葉を選ぶ。


「そうなんですね…。あの、カナタは…持っていませんでしたか?」


少し声を低くして、男性が問いかける。


「何を…ですか?」


「えっと…」


「…えっ!」


その瞬間、彼がまだ言葉を選んでいるというのに、トアはタイミング悪く叫んでしまっていた。

さっきまでびしょ濡れだったカナタの服がキレイに乾いて風にそよいでいる。

慌てて見ればトアの服も乾いていた。


「…乾いたみたいですね。暖かい日でよかった。さっきの話は忘れて下さい。」


大したことのないようにそういって彼はカナタの肩を軽く叩いた。


「起きてください、カナタ。」

「…ん…!」


カナタの瞼がぴくりと動いて大きな瞳が勢いよく開いた。


「か、カナタ君!気がついた?」

「大丈夫ですか?」

「…お前…。…遠夜…なんで、ここに…」


カナタは目を見開き、間髪を入れずがばっと上半身を起こした。トアの顔と、遠夜と呼ばれた男性の顔を一瞥する。

そして視線を落とし自分の手に握りしめたままのロザリオとトアの顔を順番にゆっくり見つめる。まるでさっきの出来事を思い出すかのように。


「…!ダメだ!」


はっとしたようにカナタは突然叫んで、トアの手を掴んだ。


「わっ…!」

「カナタ、落ち着いて−」


制止も聞かず、カナタはトアの手をとると走り出した。


「いいからっ、走れ…!」

「わっ、ちょっと待って…!」


走るのがあまりにも早くてトアの足はもつれそうになる。

そうして引っ張られるがまま、走っていくと、人気の少ない、工場の廃材置場についた。


「…か、カナタくん…っなんで急に…。あの人はカナタ君を助けてくれた人だよっ…?」


トアが息を整えてやっとのことでカナタを見上げると


「…嫌だった」


カナタは振り向かず、後姿のまま一言そう言った。


「えっ…?嫌って…」


「…俺を、忘れるな」


振り返ったカナタは、とても寂しそうな目をしていた。

その綺麗な瞳には、自分を置いていくなという懇願の色さえ浮かんでいた。

普通だったら何の冗談かと問い返していただろうが、何故かその一言が、とても重くトアの心に響いた。

まるでこれが一生の別れになってしまうかのように切迫した表情。

なぜ忘れるというのか、なぜそんなにも寂しそうなのか。

問いかけようとしたら、カナタは突然トアを抱きしめた。


「…忘れるな」

「…忘れ、ないよ…」


忘れられるわけがない。そんな悲しそうで、綺麗な目。

そう言おうとしたトアは、突然降ってきた別の声に振り返った。


「あらら~カナちゃんがめっずらしーね~?」


高いところからふってくる、少しおどけたような、高い声。


カナタはその瞬間ビクっと体を離した。


「…だ、誰ですか?」

「カナト…」


トアは怖くなって辺りを見回した。カナタがトアの手をぎゅっと握り、背中に隠すように声のしたほうを睨む。


「こっちこっち~」


声のする方向を見上げると、鉄塔の上に腰掛けた少年が手を振っていた。驚くことに、その少年はカナタとまったく同じ顔をしていた。


それを見つけるや否や、壁になるかのように、カナタがトアの前に立ちはだかった。


「…動かないで。あいつからは守り切れない…。」


「えっ…」


カナタがぎゅっと手を握り、小さな声でトアを見ずに言った。

言葉通り、張り詰めた空気が空間を満たしている。

カナタは少し姿勢を低くして、まるでいつでも飛び出せるかのように息を殺している。


「なになに、カナちゃんはその子の記憶が消されちゃうのが嫌なの~?」


「…カナト、やめろ。」


「き、記憶…?」


なおもおどけたような声に、ぞっとする。そしてさっきから明らかに、会話の内容がおかしい。


「き、記憶を消すって?忘れるって、なんですか…?」


「そ。ま、この会話もどーせすぐ忘れるんだし?質問しても無駄だよ~?」


そう言うとカナトと呼ばれた少年は鉄塔から唐突に飛び降り、ふわりと着地した。


「う、うそっ…」


「ふふふ~さっさとカナタから離れてよね?どうせあんたじゃずっと一緒になんか、いられないんだからさ。…はっ!人間と話しちゃった…うわ〜。」


突然見せつけられた、人間離れした身体能力。不釣り合いな人懐っこそうな仕草に、天真爛漫な表情。そして違和感しかない、言葉の数々。


「…嫌だ。」


カナタが唸るように言った。


「いくらカナのお願いでもねぇ?聞けないこともあるんだよ~?人間の女の子なんて脆くて、つまんないの、どこがいいの?」


柔らかい表情を浮かべているのに、目が笑っていない。


「カナには僕がいる。カナには遠夜さんがいる。大丈夫、ちょっと気になったことは前にもあったけど、でもすぐに忘れたよね?」


優しい声には、感情が籠っていない。


「だから、これ以上無駄な時間なんて必要ないよ?いなくなればカナも悩まなくて済むよ?さ、離れて?」


にこにこ微笑みを湛えながら、カナタと同じ顔が近づいてくる。


トアの体は恐怖で動かず、心臓の鼓動が、どんどん早まっていく。


1時間前からの出来事が、途切れ途切れにトアの脳裏を過る。

カナタや遠夜、そして目の前の少年の異常な身体能力。

忘れないでと呟いたカナタの顔。

トアのことを人間と呼ぶその異常な言葉遣い。すべての違和感がつながり出した。


ついに3メートルほどの距離まで、カナトと呼ばれた少年はやってきた。色素の薄い金髪の髪だけが、カナタとの大きな違いだった。


「その通りですよ。さ、その子から離れましょう。」


「っ…遠夜…。」


いつのまにか、遠夜と呼ばれたさっきの背の高い男性も現れていた。

近づく気配がまったくしない。その足音さえも。


「…。嫌だって、いってるだろ!聞けよバカ兄貴!」


カナタはじりじりと距離を詰める2人対して威嚇するように叫ぶと、トアの腕をひしと掴み、首をぶんと振った。


「え…」

「あ…」


ぽかんとする二人。


「…いた…いたいよ、カナタ君っ…!」


腕を握る強さに、トアは思わず声を上げた。


意外にもカナタの仕草が駄々っ子のようで、張り詰めていた空気が突然にして、和んでしまった。


「どうしよう遠夜さんっ…。カナが…僕のカナが…どっかで拾ってきた人間に懐いてる…っ…うっ…うわぁぁあぁん!」


カナトと呼ばれた少年が見る見るうちに余裕をなくし、次の瞬間、遠夜に泣きついた。


「信じられないです…。」


遠夜も肩を落としてカナト君を引きずりながらトアの方へと歩いて来る。


さっきまでの緊張感が嘘のように、突然人間らしくなったふたりがへろへろと歩み寄る。


「…お名前は?」


遠夜がつらそうな表情のままトアに問いかける。


「…。」


カナタの目を一瞬見れば、うん、と小さく頷きが返ってきた。


「…トアです。」

「トアさん。…改めて、私は枢木遠夜といいます。こっちはカナト。カナタとは双子です。さっきはお礼を言いそびれてしまって、すみません。カナタを助けてくださって、ありがとうございました。」


遠夜ははっきりとそこまで言い切った。そしてチラっと腰のあたりにまとわりついているカナトを見やる。その瞬間わぁわぁとわざとらしく騒いでいたカナトがピクリと反応した。それを確認すると、遠夜は一歩、カナタに歩み寄った。


「カナタくん、拗ねないでください。」


少し前かがみになり、まるで小さい子に言い聞かせるようにしている。


「拗ねてない。けどトアに何かしたら、一生、言い続ける。」


「はぁ…」


ぷいっとそっぽを向くカナタに、遠夜は困ったようにはぁ、とため息をつき、頭を押さえた。


「ねぇ、カナ、帰ろうよ…」


蚊の鳴くような声で呟きながら、俯いたカナトが歩み寄ってきて、カナタの首に腕を回して、静かに抱き着いた。


トアや遠夜が見ていることも気にしていないようだった。


ぽんぽんとその金髪を適当に撫でてカナタは言葉を返す。


「…当たり前だろ、帰る。」


「まさか、それも連れて帰るなんていわないよね…?」


カナタの首筋に顔を埋めたまま話すカナトの拗ねたようなくぐもった声が聞こえる。


「…連れて帰る」

「わぁぁぁぁっ」

「わかんねーけど…なんか」

「なんか、なんかってなにっ?」

「いや、それがわかんないから待てって言ってんだろ」


まるで彼氏と彼女のような会話が繰り広げられている。


そのとき、その不毛な言い争いを遮るように、遠夜の一段と大きくなった透き通った声がした。


「…仕方ない…お礼に家に招待しましょうか?」


その言葉に全員の視線が遠夜に集まった。


「ええ~!人間を!?大丈夫っ!?」


遠夜の言葉に驚いたカナトの言葉に、さらに驚くトア。


「あの、さっきから人間人間って…」


「あー…でも連れて帰ってから記憶飛ばそうとしてるんでしょ?さっすが遠夜さん!そこまですればカナも満足するし、厄介払いできるし、秘密もバレないし、みーんな幸せになれますねっ!」


カナトががえへへと笑った。


「…はぁ…。カナト…どうしてそんなに失礼なことが言えるんです…」


遠夜は相当疲弊しているようだった。







つづく

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