虚空の幻月

ゆきうさぎ

第1話 雨に濡れたアメジスト

 今日は朝から空に重たい色の雲がかかり、今にも雨が降り出しそうな天気だった。

昼過ぎには、空はついに耐えられなくなったようで、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。

 トアは傘を手に、居候をさせてもらっている老夫婦が営む町屋カフェの二階を出て、玄関へと向かった。今日は定休日だ。


「いってきます…」


誰もいないお店へ向かって挨拶をすると、鍵を閉め、教会へと足を運んだ。

孤児であるトアを引き取り育てた神父に挨拶をして中へと入る。


「トアおねえちゃんー会いたかったー!」


扉を開けるや否や駆け寄ってくる、同じ境遇の幼い子供たち。

18歳になると同時に、社会に出ることが定められてはいたけれど、優しい彼らの笑顔を見たくて、トアは休みになるとこうして教会へと足を運んでいた。


「すまないね、いつも相手をしてもらって。」

「ううん、いいの。私が来たいんです。また、来ますから。」


トアは微笑み軽く会釈をすると教会を後にした。

何をするでもなく、教会に立ち寄り、そしてその足はまた来た道を歩いていく。

いつもと変わらない1日の行動を足は覚えていて、そのまま道を曲がり大きな通りに差し掛かる。

気づけば雨は上がっていて、まるで泣いてすっきりしたみたいに空が透き通っていた。


石畳の細い道に差し掛かったときだった。


−ふざけんなよ?あ?


少し先の建物の隙間の道から、荒々しい怒鳴り声がした。

誰かに絡んでいるようだった。それも、次から次へと浴びせられる暴言が耳に入ってくる。

不遜な言葉が聞こえると、通行人は皆目を逸らして気づかないふりをし足を速めた。


トアの足はいつものルートを、いつものように進む。一歩、一歩、道へと近づいていく。


このまま通り過ぎればいい。横を向かなければ、見ることもない。


関わらなければいい。関わらないほうが、身のためだ。


そう自分自身に言い聞かせても、心臓の鼓動は早まる一方で。


ついにその足は細道の真横で止まってしまった。

一向に反撃する声は聞こえてこない。


—あぁ?聞いてんのか!?


一際大きな怒鳴り声がして、つい声のするほうに目を向けてしまった。


そこには水浸しの少年がうずくまり、3人の男のうちの一人が笑いながらペットボトルの水をどぼどぼと頭からかけていた。下品な笑い声が響いてくる。


「おい、さっさと謝れよ、あ?」


男が少年の髪を乱暴に掴んで上を向かせた。


「謝ってやめてくださーいって泣け。」

「そしたら許してやるって言ってんだろ」


少年は答えない。見た目からすると、歳はトアとそう変わりない。


「おいみろよコイツ。ビビって震えてんじゃねーの?」

「お家に帰りたいか?」

「んだよさっきからその喧嘩売ってるような目はよ!」


げらげらと下品な笑い声が辺りに響く。少年は微動だにせず、じっと男たちを睨みつけている。


「あ?だからなんだよその目は。まだ水がほしいのか?っならお望み通りくれてやるよ!」


男たちのひとりが、そばにあった雨水のたまったバケツを持ち上げた。


―それが目に入った時には、トアの足は勝手に走り出していた。

―ばしゃっ!


バケツの水がぶちまけられる大きな水音。

しかし、その男の子は水を被ることなく、顔を上げた。

間一髪、開いた傘が大量の水からトアと少年を守った。


「な、なにしてるんですかっ…!」

「ってめえなにしやがる!」


恐ろしい顔が近づいてくる。

乱暴に傘を掴まれ、慌てて畳む。


「えーっと、だれかなぁ、君?なにしたか、わかってるよね?」

「さ…3人がかりなんて…!」


はっきり言いたいのに恐怖で声がうまく出ない。


「あー、お嬢ちゃんも水浴びする?」

「そういうことね、じゃあ俺たちとこの後遊ぼうか?」

「ひっ…冷たっ」


頭からペットボトルに入っている冷水が浴びせられる…。


恐怖で体はこわばり、目を上げることができない。


「あはははー濡れちゃったねー。着替えなきゃねー。さ、行こうか?」

「このガキにしてはいいもん釣ったなー」


男の子の髪の毛を掴んでいた男が、ぱっと手を放して、彼を突き飛ばした。

ガシャンと大きな音がして、建物の横に出ていた配管にぶつかった少年は崩れ落ちる。

残りの二人に腕を掴まれる。もうひとりに肩に手を置かれる。

その掴む強さに、もうどう足掻いたって逃げることはできないということがはっきりと伝わってきた。

トアは悔しくて、傘を強く握りしめた。

それでも、と、トアの足は頑なに地面から離れることを拒む。


「やめてください!離して!」

「・・・。」


ふと少年を見ると、地面に手をつき、震えながらもこちらをまっすぐ見つめ返してくる。

瞳の色が、見たことのないような綺麗な色をしているように見えた。

透き通るその大きな瞳は、何故か怒りも恐怖の色も湛えていなかった。

そのかわり時折どこか痛みを堪えているように目が細められてるが、どちらかというと何か信じ難いものでも見ているような、不思議そうな顔をしているようにも見える。

その目を見つめた瞬間、不思議と恐怖は引いていき、男たちの声もどこか遠く感じられた。


「さあ、いこーか」

「離して・・・!」


彼が地面についていた手に力を込めた。合わせられたままの濃い紫色の大きな瞳が、一度だけ瞬きをした。

トアは、自分の意志が変わるのを感じて、体に力を込める。


「っ…やめてくださいっ!」


 目を閉じると体を捩って腕を振り払い、トアは傘を開いた。

勢いよく開く傘に、飛び散る水滴に、男たちが一瞬だけ怯んだのが伝わってきた。

男たちの視線を遮るようにその場にしゃがみ込み、男の子と自分の身を隠す。

 

「今のうちに、逃げて…!」


さっきよりもずっと近くで、綺麗な瞳がこちらを見つめていた。

カラスの羽のように黒い、少し癖のある黒髪からは、まだ水が滴っている。

少年は、唐突に、私のほうに右手を手を伸ばしてきた。


「えっ…」

「…。」


そのまま手は、トアの目にかかっていた濡れた髪の毛をそっとかき分け、頬に触れるギリギリのところで止まり、そして、ゆっくりと頬に触れた。


指先がとても冷たく感じる。


こんな時だというのに、トアの鼓動はなぜか早くなる一方で。

時が止まったかのように永い一瞬が過ぎた。


「……借りる」


そして手はそのままトアの首もとにあったロザリオに触れた。


男の一人に傘を乱暴に取られる。


どうして逃げなかったのか、自分自身でさえ説明がつかないけれど、何かが変わる音が、頭に鳴り響いていた。


この先、何が起こるのか…。固く目を閉じた。


その瞬間、プツンと音がして、首に一瞬、微かな重みがかかった。

つぶっていた目を開ける。

すると、いつのまにか立ち上がった少年が、傘を取り上げた男たちに向かって歩いていた。

右手にはちぎれたロザリオが見えた。


「な、なんだよ!てめぇ」


男たちが少し、後ろに下がった。

少年の体から滲み出るなんとも言えない殺気。

有無を言わせない、迷いのない歩み。


「ちっ。い、痛い目遇わなきゃ目が覚めねーみたいだなっ!」


男の拳が少年に振り下ろされる。体格差的に、敵うはずのない相手に思えた。


「やめてっ!」


トアは思わず叫んだ。

しかし、その不思議な瞬間は、突然訪れた。

少年がトアの声に呼応するように動いたのだ。

いとも簡単に男の拳をかわし、後ろに回り込み腕を掴んで捩りあげる。

男の悲鳴が上がる。男が手加減をしているようにしか思えないくらい、信じがたい光景だった。

華奢な見た目に似合わない有無を言わせない力。

男を軽く突き飛ばすと、残りの2人の後ろからの蹴りも、まるで全て予想していたかのように綺麗に躱し、一発、回し蹴りをすれば見事に足は流れて、ふたりの顔面に決まった。

完全に少年の顔の位置よりも高く、足が上がっている。


トッと軽い着地音を響かせて、まるで舞い降りた鳥のようにふわりと少年は地面に降り立った。

「ど、どうして…。」

トアは思わず呟いた。しかし、3人がかりだと気づいたときには遅かった。

先に突き飛ばされた男が、怒り狂って落ちていた傘を拾った。

少年は完全に背を向けてしまっている。閉じた傘がものすごい勢いで振り上げられる。

「危ないっ!」

トアは無我夢中で叫んだ。

少年は振り返り、傘が頭に直撃するのをなんとか避けるように、右腕を頭上に上げた。

腕が、建物の隙間から見える薄水色の空に重なる。

握った拳の間から、ロザリオがこぼれ落ち、控えめに光を反射しながら落下していく。


その一瞬が永遠にも感じられる数秒間、トアはさらに信じ難いものを目にすることになった。


-バキッ!


大きな音とともに、折れたのは、少年の腕ではなく、傘だった。


「…消えろ。」


そのとき初めて聞いた少年の声。

凄んではいるけど、思ったよりもあどけない。


「ば、化け物だっ…!」

「…おいっ、い、いくぞっ、何してんだよっ、早くしろ!」


男たちは折れた傘と少年の顔を交互に見やり、ことの成り行きにやっと気づいたようだった。

恐ろしいものでも見たかのように、傘を放り投げた。

目を見開き、みっともなく濡れた地面を、どろどろになりながら後ずさっていく。

ゴミ箱や看板にぶつかりながら、我先にと逃げていった。


「…あ、ありがとう、ございます……だ、大丈夫…?け、怪我は…っ…』


放心状態のままトアが近寄ると、少年は野良猫のように目を見開いて身構えた。

さっきの体験がよっぽど怖かったのか、まだ体が小刻みに震えている。


「怖かったね……わ、私は何もしない…よ…?」


鞄からハンカチを取り出して広げ、そーっと頭に近づける。

少年は警戒した様子でじっとこちらを伺っている。

目を合わせたまま、頭をひと拭き。ふた拭き。


すると少年はゆっくり瞬きし、安心したように笑った。


「…ありがとう。俺…カナタ。」


その神秘的な笑顔を、きっと生涯忘れないだろう、とトアは思った。

雨上がりの空は、気づけば、日の光を取り戻し、光の筋が細道にも差し込んでいた。

春の風が、ずぶ濡れの二人のあいだを、吹き抜けていく。


「っ…。あ、やばい…かも…。」

「えっ…大丈夫ですかっ、しっかりっ、か、カナタ君っ…!」


カナタと名乗った少年は、歩こうとして、急に顔をこわばらせ、頭をぐしゃっと掴んだ。

さっきの蹴りが嘘のようによろける足元。ガシャン、と大きな音がして、足元のバケツに躓いた。


そのまま、壁に倒れ掛かれるように、彼は崩れ落ちた。


「か、カナタ君っ…しっかりしてくださいっ…!だれか…!」


そしてその少年は-カナタ君は突然気を失ってしまったのだ。












つづく

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