第16話 幸一郎

 エレベーターのドアが開くと見慣れた顔が入ってきた。同期の安野だ。僕はヤツに尋ねる。

「何階だ?」

「五階でよろしく」

 二人だけの空間に沈黙が生まれる。安野が降りる階が近付いたタイミングで、ヤツは口を開いた。

「最近、暇なのか?」

「んー? まあ、定時に帰れるくらい」

「そうか。もし時間があったら、飲みに行かないか?」

 安野が人を飲みに誘うだなんて、珍しい。同期会があっても絶対に来ない奴だ。きっと何かあるんだろう。

「いいよ」

「サンキュ。店は後で送っておくから、現地集合でよろしく」

 ちょうど五階だ。安野は手を振って、エレベーターを降りていった。


 大通りを一本入ると、ちょっとした商店街だ。見慣れない名前の飲食店が並ぶ。客の入りもほどほどで、落ち着いて食事をするにはピッタリだ。僕は安野からもらったメールを頼りに店を探す。

 ここだ。雑居ビルの入口に店名が書かれている看板が出ていた。急な階段を登りきり、ドアをあける。

 天井からツタ植物がぶら下がっている店内は十席くらいだ。大きく窓が開かれていて、通りを見下ろすことができる。ソファ席に座っていた安野は、僕に気が付くと手を上げた。

「おい、こっちだ」

 僕は安野の言葉に従って、ソファに腰掛けた。

「お待たせ」

「ああ」

「安野、こういう店が好きなんだな。どこで知ったの?」

「ん?」

 安野は眉間にシワを寄せた。そして、スーツのポケットからタバコを取り出す。僕に許可を取って火をつけると、ヤツは答えた。

「俺は甘いものが好きでさ。ここのティラミス、絶品なんだよね」

「へぇ」

 勝手に近寄り難い奴だと思っていたが、意外とかわいいところもあるんだ。もっとみんなの前で、そういうところも出せば良いのに。

 飲み物と食べ物がある程度揃い、僕たちは食事をはじめた。料理はどれも美味しい。仕事ができるヤツは良い店を知っているみたいだ。これはティラミスの味も期待できる。アルコールも入っているからだろう。僕も自然に言葉が出てきた。

「安野、最近なんかあったの?」

「娘ができた」

 安野はさらっと言う。

「良かったじゃん、つーか、淡白過ぎじゃね?」

「放っとけ。これが性分なんだよ」

「ふぅん。で、いつ頃生まれるの?」

「半年後かな」

「そっか。おめでとう」

「でさ、相談なんだけど。俺も育休取ろうと思ってんだ」

「へぇ、安野がね」

「お前が取った時に上手くやってくれたお陰で、その後も続いてるんだぜ。息子の時は嫁に任せっきりだったけど、できることはしてやりたくて」

 必要な情報収集は怠らない。そういうところが安野の仕事ができる所以なんだろう。

 にしても、コイツも育休を取るとはね。「僕が取ってから、制度として機能するようになった」とは、役員の加藤さんから聞いてはいた。だが、まだまだ少数派だ。けど、エースの安野が上手くやれば、会社全体として男が育休を取るのが当たり前になるかもしれない。

 僕が育休を取ったのは、ごく個人的な理由だった。でも、それが時間をかけて大きな流れになろうとしている。そう思ったら、なんだかわくわくしてきた。

「わかった。何でも教えるよ」

「サンキュ」

 安野は頬を弛める。

「そうだな。まずはタバコを止めることじゃね」

「先生、いきなりハードル高いんですけど」

「僕はタバコを吸わないからわからないけど、子どもにはよくない」

「わかってる。けど、すぐには止められないんだよ」

「ふぅん。でもさ、子どもって匂いに敏感だから、娘ちゃんに嫌われちゃうかもな。『パパ、タバコ臭い』って」

「クソ、わかったよ。じゃあ、お前が預かってろ」

 安野は吸っていたタバコを灰皿で消して、箱とライターを僕に押し付けてきた。

「何で、僕が?」

「必要なんだろ。協力しろ」

「強引だなぁ」

「お前に比べれば、かわいいもんだよ。聞いてるぞ。育休を取る時、加藤さんにねじ込んだこと」

「人聞きの悪いこと言うなよ。まあ、しょうがないな」

 安野に恩を売っておいて損はない。僕はヤツからタバコとライターを受け取った。


 タマネギの甘い香りに誘われて歩いていくと、キッチンにたどり着いた。中から子ども向けのアニメの曲と、笑い声が聞こえる。僕はドアを開けた。

 英雄がキッチンで料理をしている。茜ちゃんはダイニングで床に座っていた。僕は二人に声をかける。

「おはよう。今朝はなんだか楽しそうだね」

「幸一郎くん。見て、見て。悠一がダンスしてるの」

 茜ちゃんの前をのぞき込むと、音楽に合わせて悠一が身体を動かしていた。そのモーションが妙に曲と合っていて、ユーモラスだ。僕も思わず吹き出してしまった。

「むっちゃ、かわいいじゃん」

「でしょ、でしょ」

「悠一、ダンスの才能があるんじゃないかな。英雄はどう思う?」

「だな、センスあるよ。もう少し大きくなったら、うちでやってる教室に通わせてみるか?」

「ナイスアイディア。いいよね、茜ちゃん?」

「二人がそう言うんだったら、私は構わないけど。って、洗濯物を畳む途中だったんだ。幸一郎くん。悠一のこと、見てもらってていい?」

「もちろん」

 僕は音楽が終わって動きが止まった悠一を抱きかかえる。あやしていたら、悠一が口を開いた。

「っぱ」

 えっ? 悠一が何か言葉を話した気がする。いや、まさか。聞き間違い? そうだ、聞き間違いにちがいない。だってーー。

「ぱっぱ」

 僕は悠一の顔を見る。その単語は、確かにその口から発された。パパ。

「ねぇ。悠一がパパって言ったよ」

 茜ちゃんが手を止めて、僕の方に振り向いた。

「えっ? 幸一郎くん、何か言った?」

「うん。悠一が僕に『パパ』って言ってくれたんだ」

 料理をしていた英雄も火を止めて、僕のところまで走ってきた。三人で悠一の顔を覗きこむ。

「ぱぱ」

 茜ちゃんは嬉しそうに僕の腕に抱きつく。

「本当だ。悠一、パパって言った」

 英雄は僕の顔を見て、ニヤリとする。そして、わざとらしく頭をかかえた。

「くそっ。幸一郎に先を越されるとはな」

 悠一が僕を見て「パパ」って言ったのは、ただの偶然だろう。悠一が単語を発した時に、ちょうど目の前に僕がいただけ。きっと面倒をみていたのが英雄だったら、英雄に言っていたに違いない。

 でも。

 悠一が生まれてはじめて「パパ」と呼んだのは英雄じゃなくてこの僕だ。

 たったそれだけのこと。勘違いかもしれない。けれどもーー。

 やっと悠一の父親になれた。

 そう思えた。

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