第15話 茜
差し込む太陽の光が部屋の中をほどよい暖かさにしてくれる。このまま、ボーっとしていたいくらいだ。悠一も気持ち良さそうにすやすや眠っている。時々する、顔を擦る素振りがかわいくて、思わずのたうちまわりたくなる気分だ。
悠一と二人っきりになるのは久しぶりかもしれない。幸一郎くんは育休明けの復帰に向けて、打ち合わせで職場に行っている。
英雄くんは水野さんの家だ。私と幸一郎くんが特に何も言わないからだろうか。徐々に家を空ける頻度が増えている。
彼が家を空けられるようになったのは、幸一郎くんが戦力としてカウントできるようになったのもあるだろう。
幸一郎くんが「育児休暇を取る」と言った当初は、一人で任せて大丈夫なのか、心配になるくらいだった。今でも私がやった方が早いと思うことはあるが、掃除は私よりもきっちりしている。
やっぱり英雄くんが先生だったのが良かったんだろうか。夫に家事をやらせるとイライラするって話を聞く。同性同士の方が、上手くやれるのかもしれない。
人手が三人分あるお陰で適度に休む時間を取れているのは本当に助かる。三人いても大変な時はあるのだ。世の中のお母さんはこれをひとりでやっているって思うと、頭が下がる。
もっと父親も育児に参加するようになれば良いのに。それは母親の負担を減らすためだけじゃない。子どもを育てることを通して気が付くこともある。
悠一が私のことを呼ぶように声をあげる。いつの間にか起きたみたいだ。朝ごはんの準備をしなくっちゃ。私は悠一を子ども用の椅子に座らせると飲み物が入ったお気に入りのコップを渡した。
最近は自分一人で飲めるようになってきている。悠一がコップに意識を向けているうちに、私は朝ごはんを用意した。
献立は英雄くんが準備しておいてくれたじゃがいも餅と鶏団子のスープだ。じゃがいも餅は悠一が自分の手で食べられるようなサイズにしてある。英雄くんが作ったものはお気に入りだから、すぐにぺろりと平らげてしまった。
この前まではミルクしか飲めなかったのに。こうやっていろいろなものが食べられるようになったのを見ると感慨深い。
部屋の外から時間を告げるメロディが聞こえてきた。そろそろ瑞希が来る時間だ。準備をしなくっちゃ。それにしても、どのくらいぶりだろう。最後に会ったのは結婚式の時だっけ。高校時代からの友だちだけど、こんなに長い期間会わなかったのは、彼女の長女が生まれた時以来だ。
あの頃はさみしいと思ったけれども、実際に同じ立場になった今ならわかる。それどころじゃないのだ。こうやって人間関係は変わっていくものなのかもしれない。悠一の面倒をみながら、掃除をしているとインターフォンが鳴る。モニターには瑞希の姿が写っている。私は悠一を抱き上げて、ドアを開けに行った。
「いらっしゃーい」
「元気そうね。あら、悠一くん。こんにちは」
瑞希は手を振るが、悠一は私の胸から顔を離さない。私は彼女に謝る。
「ごめんね」
「気にしないで。一歳くらいってまだ人見知りする時期だもの。もう少ししたら、また変わってくるわよ」
「そうなんだ。って立ち話もなんだから、あがってあがって」
みんなでリビングまで行くと、瑞希は手に持っていた有名なフルーツパーラーの紙袋を差し出した。
「これ、お土産」
「ありがとう。助かる」
悠一でも食べられそうなものを持ってきてくれるのは、やっぱり先輩ママだ。お茶で一服ついてから、私は口を開く。
「元気にしてた?」
「もちろん。二人も娘がいて、体調崩してる暇なんてないわよ。旦那も合わせて三人育ててるみたいなものね」
「そうなんだ」
「だって、こっちが忙しい時に『タオルどこ?』とか聞いてくるのよ。自分のことくらい、自主的にやって欲しいわ。幸一郎さんはどうなの?」
「彼はそういうの、あんまりないかな。けっこう適当なところはあるけど、掃除は私より綺麗にしてくれる」
「御両親の教育が良かったんじゃない? 男の人って『家事は自分が主体的にするもの』って意識が低いから、いくつになってもお手伝い感覚なのよ」
言われてみれば、今でも幸一郎くんは家事に対して受身なところがある。英雄くんから「具体的に指示した方が良い」って言われて、意識するようにしてからは、気にならなくなってきたが。
「それはそうかも。幸一郎くんも、最初はびっくりするくらい家のことができなかった」
「やっぱり。幸一郎さん、育休取ってるって言ってたけど、ちゃんと家事してくれてる?」
「今はちゃんとやってくれてる。先生が良かったんじゃないかな」
「茜が上手く教えたんだ」
「じゃなくて、英雄くんが」
「誰それ?」
瑞希はいぶかしげな顔で私のことを見た。まさか結婚するまで幸一郎くんの恋人で、今も一緒に住んでる、だなんて答える訳にはいかないだろう。
「幸一郎くんのお友だちで、家事が上手いんだ。うちのことも手伝ってくれて。ごはんがすごく美味しいの」
「へぇ、そんな素敵なお友だちがいたんだ。もしかしたら、幸一郎さん。茜が取られるって焦っちゃったんじゃないの?」
瑞希の言う通りかもしれない。幸一郎くんが育休を取ったのは、英雄くんの存在が大きい気がする。
「そうだね。幸一郎くん、最初は私に任せっきりだったもん」
「そうなんだ。男に育児をさせるには、危機感を煽る存在が大事なのかもしれないわね」
「うん。周りにする人がいるから、自分がどれだけできてないか、わかったみたい」
「ふぅん。でも、それでがんばろうって思えるのはやっぱり幸一郎さんが良いお父さんなんだと思う」
「そう?」
「そうだよ。うちの旦那だったら『隣のお父さんが、自分よりも家事をする』って聞いても、機嫌悪くなるだけだもん」
英雄くんも幸一郎くんも、そんなことはない。父親になるっていうのは血のつながりなんて関係なく、本人の意識の問題なのかもしれない。
連絡を取り合っていたとはいえ、こうやって直接会うのは久しぶりだ。話題は尽きない。夢中になっていたら、キッチンのドアが開いて、幸一郎くんが部屋へ入ってきた。
「ただいま。あれ、お客さん?」
私は立ち上がって、彼を迎える。
「うん、学生時代からの友だちの瑞希。結婚式で会ったでしょ」
「ああ、その節はどうも」
幸一郎くんの言葉に瑞希も立ち上がって挨拶する。
「こちらこそ、茜に言ってたんですよ。『子どものために育休を取るなんて、素敵な旦那さんね』って」
「そんなことないですよ。むしろ取って良かったです。それで父親の自覚がついたくらいなんで。それに妻のありがたさがよくわかりました」
「まあ、うちの主人にも聞かせたいところだわ」
「ははは。男って自分から関わらないと、家で何をやっているのか無関心になりがちになってしまって。良くないですよね」
「本当に」
「僕も最初はたいしたことも、できなくて。でも、ほめて伸ばしてもらったんですよ。先生が良かったんでしょうね。上手く操縦されちゃいました」
「そうなんですね。あら、いけない。もうこんな時間。そろそろお暇させていただきますね」
「そうですか。またゆっくり遊びに来てください」
「はい」
私たちは玄関で瑞希を見送った。悠一も手を振る。数時間一緒だったから慣れたんだろうか。それとも「美味しいゼリーをくれた人だ」って覚えたのかもしれない。悠一は食いしん坊だからな。私は笑ってしまった。
「茜ちゃん、楽しかったみたいだね」
「うん。幸一郎くんは久しぶりの職場、どうだった?」
「やっぱり半年もいないとダメだね。連絡取って状況確認はしてたから、なんとかなりそうだけど。復職までは、ちょくちょく出社した方が良さそうだ」
「だよね。英雄くんが帰ってきたら、相談しよ」
私の言葉に幸一郎くんは黙った。
「あのさ、茜ちゃん。まだまだ僕だけじゃ力不足だと思う。けど、英雄がいなくても、大丈夫なやり方を考えていった方が良いんじゃないかな」
「えっ?」
「別に英雄をのけ者にしようって訳じゃないんだ。今、僕たちはあいつを縛っている気がしてて」
水野さんのことが頭に浮かぶ。英雄くんは、やっぱりあっちの家に行きたいんだろう。でも、私たちに遠慮している。もちろん、彼の責任感もあるんだろうけど。
「英雄がしたいことがあるのに、僕たちの都合でそれができない、っていうのは嫌なんだ」
幸一郎くんは本当に英雄くんのことが好きなんだな。不器用な人だけれど、その根にあるものは、彼なりの愛なんだろう。
「もちろん、すぐじゃない。それに英雄の気持ちもあるよ。でも、そろそろアイツがいなくても、きちんとできるようにした方が良いんじゃないかな」
「わかった。大切な人だからこそ縛るんじゃなくて、その幸せを祝福できるようにしたい。それは私も一緒だよ」
「茜ちゃん、ありがとう」
「なんだか英雄くんをお嫁さんに出す話をしてるみたいじゃない? 行って欲しい気持ちと、行ってほしくない気持ちで揺れ動いてる感じが」
「そっか、言われてみれば」
幸一郎くんが笑い出したのにつられて、私もつい笑顔になってしまった。
まるで悲しみの涙を誤魔化すように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます