第9話 茜

 職場から帰る電車の中で、私はスマートフォンをチェックする。英雄くんからメッセージだ。今日、帰るのが遅くなる。そう書いてある。

 最近の英雄くんは、なんだかおかしい。

 悠一が生まれる前くらいから、英雄くんの帰りが遅いことなんて、ほとんどなかった。それなのに最近は、友だちと飲みに行くことが増えている。英雄くんには私も、悠一も散々お世話になってきた。だから、彼が息抜きできるようになってきたのは、良いことだと思う。

 だから、英雄くんが飲みに出掛けるだけだったら、私もそれほど気にしなかったかもしれない。

 だが、実際には、もう一つ変化がある。洗濯物をしている時、私はお洒落な男性用の下着を見つけてしまった。

 それを見て「世間の主婦は、こうやって夫の浮気を疑いはじめるのだろうか」と思ったものだ。

 でも、英雄くんに恋愛をする相手を見つける時間なんて、あったんだろうか。ダンス教室の生徒さんは未成年、同僚は女性だけだと聞いている。大体、英雄くんは以前「職場恋愛はしない主義」と言っていた。だったら、その線は薄そうだ。

 それとも、子育て中に誰かと出会った? とりあえず、若い奥さんにはモテそうだ。彼女たちの嫉妬の視線を感じたことは、ある。英雄くんは女性も大丈夫だから、その中の一人とーー。

 それ以外には、どんな可能性があるだろうか。出会い系のアプリを使ったのかもしれない。幸一郎くんとは、それで出会ったと聞いている。

 いや、待てよ。そもそも幸一郎くんとの関係が戻った、ということも考えられる。二人は元々恋人同士だ。一緒に子育てしているうちに、再燃してしまった。なんて話は、ありうる。

 悠一を寝かしつけた後、薄暗い部屋で幸一郎くんが、英雄くんの耳元でささやく。

「やっと二人きりになれたね」

 英雄くんはその言葉にうなずき、そしてーー。やだ、私。それちょっと見てみたい。って、私は何を考えているんだろう。

 そんなつまらないことを考えているうちに、家へ着いてしまった。私はさっきの妄想を打ち消すように、声を出してドアを開ける。

「ただいま」

 ダイニングへ行くと、エプロン姿で悠一を抱いた幸一郎くんが、私の方を振り返った。

「おかえり」

 悠一も、私への挨拶みたいに嬉しそうな声を上げた。私が幸一郎くんの代わりに抱っこをすると、彼は私に聞く。

「茜ちゃん、今日の晩ごはんは?」

「食べる」

「じゃあ、用意するね」

 幸一郎くんはキッチンへ行き、冷蔵庫をあさりはじめた。

「今から作るんだったら、私が自分でやろうか?」

「ん。英雄が出掛ける前に、作り置きしていったのがあるんだ。それを温め直すだけだから、大丈夫だよ」

「そっか」

 私は椅子に座って悠一をあやしていると、幸一郎くんは手際よく夕食の準備をしていく。彼が育休を取ったばかりの頃は、私が職場に復帰しない方が良いんじゃないかと思うほど、危なっかしかった。けれど、かなり成長している。きっと英雄くんの指導が良かったんだろう。これだったら、幸一郎くんの育休が終わった後も、上手くやれそうだ。彼はお盆を持って、こちらに来た。

「できたよ」

 幸一郎くんが食器をテーブルの上に広げた。献立はごはんと野菜を添えた白身魚のソテーに、かぼちゃのポタージュだ。ソテーに添えられたバジルソースの香りが、食欲を刺激する。彼は私の隣に座った。

「悠一。こっちにおいで」

 私は悠一を預かってもらい、まずはポタージュを味わう。クリーミーでやさしい甘さが、口の中に広がった。思わず声が洩れる。

「美味しい」

「だよね。悠一も気に入ってた」

 さっきから悠一がキラキラした目でこちらを見ていたのは、そういう訳か。幸一郎くんの腕の中で、ジタバタとこちらへ手を伸ばしている。

「悠一、食べる? はい、あーん」

 私の言葉で開いた口にスプーンを近づけると、悠一はぱくりと食いついた。そして、嬉しそうな声をあげる。幸一郎くんはその顔を見つめて、微笑んでいる。

「悠一、良かったね」

 その後も何回かあげたら、悠一はすっかり満足したようだ。幸一郎くんに抱っこされながら、うつらうつらと頭を揺らしはじめた。それを見届けて、私は自分の食事に戻る。

「悠一。本当に英雄くんの料理、好きだよね」

「うん。僕もそんな風になりたいな。けど、料理をしようとしたら、英雄から『悠一を殺す気か』って止められるんだよね。人のことをなんだと思ってるんだか」

 英雄くんは絶対に幸一郎くんに料理をさせない。二人で暮らしていた時、余程酷い目にあったようだ。

「そういえば、英雄くん。出掛けてるんだね。何か聞いてる?」

「えっ、茜ちゃん聞いてないの? 『友だちと飲みに行く』って言ってたよ」

「そう。幸一郎くんは出掛けないの?」

「別に予定はないよ。もしかして茜ちゃん、何か用事あるの? だったら、僕が面倒みてるけど」

「ううん、違うの。ただ確認しただけ」

 英雄くんの相手が幸一郎くんということはなさそうだ。っていうか当たり前か。英雄くんが出掛ける時、いつも彼は家にいるんだから。

 でも、幸一郎くんは気にならないんだろうか。仮にも恋人同士だった二人なのに。そもそも幸一郎くんは、性欲を感じさせないタイプだ。実際のところ、どう考えているんだろうか。気になる。

「たとえばの話なんだけどさ。英雄くんに恋人ができたら、幸一郎くんはどうする?」

「ん、そうだな。そんなこと考えたことないや。でも、英雄に『その人と幸せになりたい』って相手ができたら、祝福するかな」

「そうなんだ」

 幸一郎くんは、英雄くんに対する愛情が、もうないんだろうか。私が二人の関係を知っていることに、幸一郎くんは気付いていないからかもしれないけど。それとも男同士って、相手に執着しないものなのかな。考えがまとまらない私をよそに、幸一郎くんは続ける。

「だってさ、僕の都合にいつまでも英雄を付き合わせる訳にはいかないじゃん。あいつが幸せになる邪魔を、僕はできないよ」

 そっか、確かに幸一郎くんの言う通りだ。今の状況は英雄くんの好意と、義務感に甘えているだけで、本来は彼を巻き込むべきじゃない。

「そうだね」

 私は幸一郎くんの言葉に相づちを打つしかなかった。

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