第8話 英雄

「幸一郎くん、大丈夫?」

 スーツ姿の茜ちゃんが、心配そうな顔で幸一郎と俺を見る。幸一郎は、のほほんとした笑顔でうなずく。

「うん、大丈夫だよ」

 幸一郎。お前のその態度が、茜ちゃんを不安にさせるんだと思うぞ。彼女を安心させるために、俺は言葉を付け加える。

「俺も今日は一日休みだから、何かあったらフォローするって」

「そっか、そうだよね。英雄くんがいるんだから、心配することないか」

 茜ちゃんは自分自身を説得するようにつぶやく。そして、うつむいていた顔を上げた。

「わかった。でも、何かあったら、私に連絡してね」

「オッケー。じゃあ、いってらっしゃい」

 手を振る幸一郎に振り返しながら、茜ちゃんは俺の目をじっと見つめる。何かあったら、よろしく。そう言われているようだ。俺は彼女の期待に答えるように、自分の胸を叩いた。茜ちゃんは顔を緩める。

「いってきまーす」

 玄関から出ていった彼女を見送り、幸一郎はキッチンへ戻っていった。俺はその後を追う。

 幸一郎は一ヶ月前のある日、俺と茜ちゃんに「育児休暇を取ろうと思っている」と宣言した。その唐突な言葉に、俺たちはビックリしたものだ。真意を問う茜ちゃんに、アイツはこう答えた。

「これまでの僕は、形式的な悠一の父親だった。けれども、僕も実質的な父親になりたいんだ」

 悠一が生まれる前から、俺と茜ちゃんは、実質二人でやってきた。それは理由あってのことだが、幸一郎には疎外感があったのかもしれない。

 茜ちゃんも同じようなことを感じたようだ。俺たちは幸一郎の申し出を受け入れることにした。

 とはいえ、その当時の悠一は、幸一郎を「家族だ」とは認識していなかったのだろう。幸一郎が抱くと、すぐに泣く始末だった。

 という訳で、一ヶ月の引き継ぎ期間を取ることにした。一応、なんとかなりそうなレベルになったので、今日が茜ちゃんの職場復帰第一日目だ。

 さて、大丈夫だろうか。

 キッチンに戻ってくると早速、悠一の泣き声が聞こえる。幸一郎はさっとベビーベッドへ行き、悠一を抱きかかえた。

「うーん、おしっこみたい」

 幸一郎は悠一をおろして、オムツチェックをする。

「やっぱり。悠一、気持ち悪かったね。すぐ取り替えるよ」

 最初の頃は、何で悠一が泣いているのかもわからずに、オロオロするばかりだったのに。この一ヶ月教育した成果を目の当たりすると、自分のことのようにうれしい。

「英雄、オムツの買い置きって、ここにあるの以外にあったっけ?」

「ん? そこにあるのが、全部だと思うけど」

「そっか。これだと、今日いっぱいは、もたないかも。買いにいかなくちゃ」

 幸一郎が出掛けるなら、俺が悠一の面倒を見た方が良いだろう。

「俺が悠一をみてるから、パッと行ってこいよ」

 幸一郎は悠一をあやしながら、オムツを取りかえると、俺の顔をみた。

「他にも買いたいものがあるんだ。けっこう荷物が多くなりそうだから、二人で一緒に行かない?」

「ん? いいけど」

「よし、決まり」


 部屋の外へ出たら、心地よい風が吹いてきた。日射しは穏やかで、買い物が終わったら、のんびり散歩でもしたいところだ。

 駅へと続く並木道に落ちた色づいた葉は、歩くごとに音を奏でる。近くの公園からだろうか。子どもたちの元気な声が聞こえてきた。

 抱っこ紐で幸一郎の胸元に抱かれた悠一は、安らかな寝息をたてている。それを見つめる幸一郎の眼差しは、まるで毛布のようだ。

 すれ違う人たちが、俺たちのことをチラチラ見ている。コイツらどんな関係なのか。顔には、そう言いたげな表情を浮かべている。

 まあ、当然の反応だろう。普通の男は会社へ行っている時間に、男二人が赤ん坊を連れているのだ。さぞかし異様に見えるだろう。まさか通報されないだろうな。とはいえ、やましいことなんて、何一つない。

 もし俺たちのどちらかが女だったら、周りの目なんて気にせず、二人でこんな風に過ごすことができたのかもしれない。

 って、俺は何を考えているんだろう。普通のサラリーマンの幸一郎とダンサーの俺。男女だったら、接点はなさそうだ。俺たちは男同士だから出会い、愛し合った。

 だとしたら、この風景は普通ならば、あり得ないことだ。幸一郎はどう思っているんだろう。それが知りたくて、俺はつぶやく。

「こうしてると、俺たち、夫婦みたいだな」

 幸一郎は目を丸くする。だが、すぐに吹き出した。

「バーカ、何言ってんだよ」

 だよな。バカなことを聞いた。自分でもわかってる。話を別の方向へ流そう。だが、俺が口を開く前に、幸一郎は言葉を続けた。

「でも、実は僕も同じこと思った」

 幸一郎は、はにかんだ顔で俺を見つめる。コイツのこういうところ、ズルいよな。だが、それを正直に伝えるのは癪だ。

「お前が旦那だと苦労しそうだけどな」

「なんだよ、それ。って、そう言われるのも、当たり前か。こんなに付き合わせてるんだから」

 幸一郎の瞳に影が差す。そういうつもりで言った訳じゃない。一緒にいるのは、俺の意思だ。けど、なんて取り繕ったら、良いんだろう。思い浮かばないので、とりあえず話をそらすことにした。

「それにしても、よく育休なんて取れたな。普通の会社だと風当たり強いんだろ?」

「そうだね。でも、役員の加藤さんって人に相談したら、大丈夫だったよ。制度は作ったけど、使う人がいなかったから、会社も候補を探してたみたい」

「ふぅん」

「まあ、『半年、取る』って言ったら、ビックリしてたけど。一度、言質は取ったら、あとはコッチのもんだよ」

 「たいしたことではない」って顔で笑っているが、その瞳には黒さを帯びているような気がする。

 その時、俺の名字を呼ぶ男の声が聞こえた。

「あれ、村上さん?」

 声がした方を向くと見慣れた顔だ。

「ああ、水野さん。今日はお休みですか」

「息子の用事があって、これから仕事です。そちらはーー?」

 水野さんは幸一郎を見て、何を言ったら良いのか、と言いたげな顔だ。ややこしいことにならないよう、上手くやらねば。

「悠一の父親の、幸一郎です」

「へぇ、悠一くんの。はじめまして。ボクは水野です。村上さんには、いつも仲良くしてもらってます」

 水野さんが手を差し出す。幸一郎は一瞬ためらったが、その手を握った。

「また時間がある時にでも、ゆっくり」

 にっこり笑顔を浮かべて、駅の方へ走っていってしまった。水野さんが見えなくなると、幸一郎は俺に尋ねる。

「どういう知り合い?」

「パパ友。水野さん、バツイチだから、一人で息子さん育ててるんだ。子ども連れの男って、ほとんどいないからさ。自然と仲良くなったんだ」

「ふぅん。で、英雄はあの人に僕たちの事情を話してるの?」

「えっ?」

「だって、僕のことを『悠一の父親』って紹介したのに、あの人、驚いてなかったから」

「うん。隠して、後で『それがウソだ』ってバレた方が、まずいじゃん。けど、細かい事情までは、話してない。『一緒に住んでるから、手伝ってる』って言ってる」

「そっか。それについて、何か言われなかった?」

「別に。フリーランスで仕事をしてるからかもしれないけど、あんまり気にしてない風だったな」

「へぇ」

 幸一郎が立ち止まった。目的地の大型量販店だ。俺たちは二人で店内に入った。


 蛇口をひねると温かいお湯が俺に降り注いでくる。今日のリハーサルは、けっこうハードだった。けど、その分、達成感もあった。これだったら、本番の公演も良い出来になりそうだ。

 達成感といえば、幸一郎が育休に入ってから二ヶ月。なんとか一人でも悠一の面倒をみられるように育ってくれた。最初は不安がっていた茜ちゃんも、今では安心して仕事へ行っている。お陰様で前より自由時間を持てるようになった。これも俺の努力の成果だろう。

 さぁて、汗もすっかり流せてスッキリした。俺は鼻歌まじりで腰にタオルを巻いて、自分のロッカーへ戻る。

 扉を開けたら、スマートフォンがメッセージの受信を知らせている。手に取ってチェックしたら、「もう待ち合わせ場所に着いている」という連絡が入っていた。

 ヤバい。

 俺は急いで着替えると、ダンススタジオを出た。人で混みあうネオンに照らされた道をかき分け、ビルとビルのすき間に滑り込む。

 どこに行くんだろう? 知らない人が見たら、きっとそう思うに違いない。薄暗い細道を進んで行くと、少し広くなったスペースに看板、そして階段が現れる。俺はそれを上がり、ドアを開けた。

 余裕を持って置かれたテーブルには、人影がまばらだ。天上から吊り下げられた大きなモニターには、サッカーの試合が流されている。

 それを眺めていた男は、こちらを向く。そして、手を振ってきた。俺は彼に近寄る。

「お待たせして、すみません」

「いや、気にしなくて大丈夫だよ。息子はボクの両親のところでお泊まりだから、時間の余裕はある」

 ビールを片手に、顔が赤くなった水野さんが、俺の顔を見つめている。

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